タクシー

出会うまでは、私は、深夜のそれとは無縁の生活を送っていた。どちらかというと嫌いだった。高いし、というのが根本的な理由だったけれど、なんだか真っ黒な車体に引き込まれて、どこか知らない場所まで連れて行かれてしまいそうで、怖さも少しあった。

助手席の後ろには、iPadが取り付けられていて、客が退屈しないようになっているのだけど、流れているのは転職のCMばかりで、深夜作業を終えた私を余計に沈んだ気持ちにさせる。知らない人と2人きりの車内、なんとなく、いつか話しかけられることがありそうでイヤホンをつけられなくて、結局家の前まで、そのCMをぼーっと見てしまう。

疲れて乗り込むと、必ず家まで送り届けてくれる、神様みたいな乗り物。

俺は、お金を払えばどこにでも連れて行ってくれるこの乗り物が好きだ、と言っていた。電車とも違う、自分で運転するのとも違う。
ただ、自分を目的地に運んでくれるもの。それはこれだけだって、助手席の後ろで足を組んで、転職のCMを見ながら言っていた。

2人で乗るときは、決まって帰る場所が私の家だった。
だから、手を繋いでいた。

タクシーは私にとって、非日常だった。
特別な刺激をくれる乗り物だった。好きな人の横顔と、いつもよりも早いスピードで、流れていく街の景色が、私を少しだけ、黄昏た気分にさせた。

なぜか、あの車内での、2人での会話を、私は一言一句覚えている。
一緒にドライブをした時の会話も、散歩をした時の会話も、そのほとんどを、今ではほとんど覚えていないし、好きだったことだってしっかりと忘れて日常を過ごしているのに、なぜか、あの車内での会話は、一つ残さず、こぼさず、丁寧に覚えている。

私は、覚えてしまっている。
初めて乗せてもらった日のことも、1人、タクシーに乗って帰って行く、二度とこの家の玄関を跨ぐことのない、後ろ姿を。

数年経って、大人になって、あの時は嫌いだったタクシーに、私は1人で乗っている。
過去に帰れるこの貴重な乗り物が、今は、少しだけ私も、好きになってきた。

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