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休学の目的

去年の今頃、休学を決意した。
自分の未来が見えなくて。
大学に入るまでは将来は研究職に就くと、ブレたことがなかった。
宇宙も遺伝子も脳神経も、サイエンスには未知の世界が広がっている。

大学に入って、周囲の人間ががらりと変わった。
東京から大阪に来たというのもあるだろうし、都立トップレベルの進学校から地方の私大文系に来たというのもあると思う。
-就職のために大学に来ただけで勉強には興味ない。
-数学を避けたら心理学部が丁度良かったから来た。
-将来の希望は特にないから公務員が安定していていいかな。
パッションとエネルギーに満ち溢れた高校生活3年間を送っていた分、何かをしたい!という強い思いを持たずに生活する人に囲まれて温度差に戸惑った。
それでも私は私の道を、と研究論文を読んだり教授とお話ししたり自分の興味を追究したが、ふと気づいてしまった。

社会に出るというのは、周囲のニーズに合わせた価値をサプライする技術があるということなのではないか。

研究といっても、様々な形がある。
-企業の研究所でその企業が求める成果を出せるよう研究する。
-なんとか社会に役立つような一面を見つけてうまく申請書を作り国からお金をもらって大学などで研究する。
-超絶お金持ちになって自由にやりたい研究をする。
最後の選択をできるのは限られた人のみだろう。
やりたいことを自由にできるのが一番だ。
しかし、「お金を稼ぐ」ためには、社会のニーズに応える必要がある。
前者2つも、自分の興味と企業や国のニーズが合致するのであればそれは最高のお仕事になる。

現状の社会において、科学はもはや魔法と化している。
必要以上の開発が進み、生活において困ることがないどころか、「こうなったらもっといいかも」と感じることも少なくなっている。
これ以上の研究は、はたして必要なのか。
寿命が延びる必要があるか。
誰にだって訪れる死を回避する必要があるか。
機械に仕事を任せる必要があるか。
全てを自動化する必要があるか。
人類が何を目指しているのか、私にはわからない。
私は社会のニーズに疎い。
社会を知らないままに、社会に出ることはできない。貢献することはできない。お金を稼ぐことはできない。
ただ自己満足の研究を続けて、それが社会の何の役にも立たない時(もしくは何らかの形で貢献しているがその実感をもてない時)、私はその活動がお金をもらうに値しないと感じるのだ。
きっとその収入に対して申し訳なくなってしまう。
研究職は向いていないのかも??

生きていくにはお金が必要だ。当たり前だ。
どんな手段でもいいからお金が欲しいと考える人もいるだろう。
それでもいい。そう割り切れるのならむしろそのほうがいい。
しかし私は自分が納得できるお金を受け取って生活したい。
お金そのものに価値はない。
どれだけの価値を持つものか実感できる活動をしながら稼ぎたいのである。
我儘で難しいことを望んでいることは承知だ。
めんどくさい生き物だと思う。
それでも、私は私に合った生き方をしていくために、私に合った仕事を見つける必要がある。

自分に何ができるのか。これがとても難しい。
知り合いに相談してみると、あれもできるしこれもできるじゃない!という反応が返ってくる。
あなたの持つ情報には価値があるから情報商材で稼げるよ!と言われたこともある。

義務教育では常にトップクラスの成績。
高校は都内ではそこそこ有名な進学校。
大学も私立の中では一応名が知れている。
TOEICは800点後半。
小1から高3まで日本舞踊を習っていた。
3歳から小6まで水泳をしていたので全泳法それなりの速さで泳げる。

他にもいろいろあるのかもしれないけれど、私はこれらを誇りに思ったことはなかった。
どれも、努力を要さなかった。
トップクラスの成績とはいっても勉強は全くしていなかった。
高校は単に数学にハマっていたために自校作成問題が面白いところを受験した。
大学受験は完全にノー勉で、センター利用で受かった知らないところに進学した。
TOEICはノー勉で挑んだ上に受験中に寝ていた。
日本舞踊は楽しかったから続けていた。
水泳は確かにつらかったこともあるけれど、スクールに通うことが当たり前な日常だったし、同じコースを泳ぐ人を追い抜いていくのは面白かった。

他人からすれば努力を要することなのかもしれないけれど、私は何の努力もせずにここまで生きてきた。
これは自慢ではなく、自戒だ。
何の努力もせずに20年間のうのうと生きてきた自分が心底恥ずかしい。
努力せずとも一定のレベルをこなせることに無自覚で、周囲とのギャップに苦しんだ。
テスト期間に必死で勉強するクラスメイトを見て、私には「頑張る」才能がないのだと、愕然とした。
彼らは私の成績を称賛したけれど、私は彼らの努力を羨ましいと尊敬した。
それは彼らにとって嫌味でしかなかったようだけれど。
私は自分が酷く醜く劣った生き物だと常に感じるようになった。
彼らのような努力ができず、けれどもそれを羨めば嫌味な奴だと眉を顰められる。
学校は、自己否定の連続だった。
幼い頃に持っていた全能感は消え去った。
私の中にはひとかけらの自信も残っていない。

自信がない人間は、他者から褒められてもそれを素直に受け止めることができない。
「私なんて」を連発することになる。
「そうよ、私はこれができるのよ」と胸を張って主張できるのは、努力を積んだ人。自分の活動に誇りを持っている人。その状態に至るまで中身のある時間を過ごした人。
何の苦労もなく達成できてしまう人を周囲は羨むけれど、それはとても寂しくて哀しいことだ。
努力をしないダメな自分と周囲が称賛するスゴイ自分像の乖離が加速して、自分がどこにも存在しないように感じる。

真に賞賛すべきは努力を続けた上で結果を出した人だ。
と、努力をせずに結果を出してきた私は思う。
もちろん重要なのは結果のみだ。世の中そんなもんだ。努力したからといって許されるわけではない。
当人も周囲も満足するためには、努力を続けた上で結果を出すことが必要なのだ。

努力をしたい。
休学をして何をしたいのか考えたとき、頭に浮かんだ。
努力をして自信のある結果を出したい。
では、努力とは何か。
辛いことを耐えて耐えてひたすら苦しみ続けること?
これは私だけなのかもしれないけれど、「努力=辛くて苦しい」というイメージが強い。
楽しんで生活をしていると咎められるような。
苦しんでいないとなんだか後ろめたくなるような。

私には多分、ものごとを楽しむ才能がある。
レポートだって作文だって、始めるまでは確かに面倒だけれど、始めてしまえば楽しくなってもっともっとと内容を膨らませたくなる。
数学は最も簡潔で論理的な解を出すためのパズルみたいなものだし、英語は言語なのだからコミュニケーションを円滑にしたり好きな映画を理解したりするためのものだ。
理科は今生きている世界を論理的に説明する手段で、社会科は人間活動を言語化したもの。
国語は毎日使う思考やコミュニケーションのツール。表現の幅が広がれば新しい発想が生まれたり新しい出会いがあったりする。もちろん知識が増えることで限定される思考も人間関係もあるわけだけれど。
私は今まで、学校の勉強に「成績のために」取り組んだことがないかもしれない。
無機質に印刷された「5」には興味もなかった。
新しいことを知る、新しい考え方ができる、新しい世界が広がる。
だから1対1の問題は好きじゃないしできない。

放物線と交わる直線とが作り出す図形の面積の求め方なんて、いろんな方法があっていいじゃない。
sense の意味は 感覚 なんて、文脈によって変わるのにどうして1対1で覚えさせるのかなあ。
電流は+から-に流れるなんて決めちゃった後に電子が-から+に移動していることが分かったみたいに、現在もっともらしいといわれている論理が導き出した解は必ずしも常にもっともらしいわけではないんじゃないかな。
周囲から見た誰かの活動と当人が自認する活動とは同値とは限らなくて、視点によって全く異なるかもしれないのに、どうして教科書が絶対なんだろう。
同じ場面・同じセリフでも同じ感情にはならないかもしれない、誰かが思う「青色」と私が思う「青色」が同じだとは確かめようもない。それなのに、あの物語のあの登場人物はあの場面ではあの感情でしかありえないのだろうか。

1対1を問われるテストなんて、臨機応変さや懐疑心を損なうだけだ。
学校のテストを絶対視していたら、きっと勉強は苦しくて楽しくなくて辛いんだろう。
私はものごとを楽しむ才能があると前述したが、それは多分辛いことから逃げる才能でもあるのだろう。
辛いと感じる視点から離れて、楽しいと感じる視点に切り替えてみる。
私は今まで、辛くて苦しくてひたすら頑張って乗り越えて結果を出したという経験がない。
もちろん、辛くて苦しい経験がなかったわけではない。あんまり記憶はしていないけれど、辛いことだって苦しいことだってあったと思う。
ただ、最後に「あー辛かった」「辛かったけどやってよかった」と感じたことは絶対にない。
何かを振り返ったときに辛い思い出が出てくることが少ない。
楽しんだ思い出ばかりだ。

「努力=辛くて苦しい」を真としてしまえば、私の今までの経験に努力は含まれていない。
だから私は努力をした経験がないと、自信喪失してしまう。
楽しくても、努力と呼んでいいのではないか。
と、自分のメンタルヘルスのために問いかけたい。
休学をするときに設定した、休学中の目標は、楽しい努力もあるということを実感することであった。

1年間の休学届を出して、半年以上が過ぎた。
前半はとっても濃密で楽しくて私の人生に必要な時間を過ごせたと自信をもって言える。
楽しんだけれど、きちんと自分の成長を感じることができた。
ただ楽しむだけでなく、昨日の自分と比較したときにどう変化したかを日々自覚しながら生きていく。
そうすれば、なんとなく「あれ、私頑張ってる。努力してる。楽しいけど、これ努力じゃない?」って気持ちになっていく。
私はもう「努力=辛くて苦しい」とは思っていない。
努力は、自覚して自認すること。自分で自分を認めてあげることだと思う。

後半に入って1か月が経とうとしている。
私は今異国の地での新生活をスタートさせようと必死だ。
ロンドンでの家探しはとっても大変だった。
毎朝「よし!今日もがんばるぞ!」という気持ちで外に出るのに、何軒ものviewingを経て夜遅くにステイ先に戻ると「もう日本に帰った方がいいのかもしれない」と弱気になった。
それでもすてきなお部屋を見つけられたのは、たくさん心配して助けてくれた人のおかげ。
私は今、他人に助けられて生きているという当たり前のことを実感できている。
自分しか存在しなかった私の世界に、たくさんのあたたかい人たちが現れ始めた。
自分に自信がない故に、他人を信用せず、頼らず、寄せ付けず、ひとりきりの世界を守ってきた私が変わりつつある。
今後の目標は、自分の周囲の人ときちんと交流して、世の中のニーズを知ること。そして自分がそれにどう応えていけるか、そのカタチを掴むこと。
私の生きる道は私が創る。満足できる人生を拓きたいと、我儘に生きていくのである。

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