優しさへの、その一歩
一日一日を、
たっぷりと生きて行くより他は無い。
明日のことを思い煩うな。
明日は明日みずから思い煩わん。
きょう一日を、
よろこび、
努め、
人には優しくして暮らしたい。
── 太宰治「新郎」より
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「叔父さんが、バレンタインデーのお返しにくれた手紙をまだ取ってあるんだよ」
高校の修学旅行の合間に、ぼくの職場近くまで会いに来てくれた楓は言った。九州に住む姪の楓は、中学に上がるまでずっと、東北から東京に出て一人暮らしを続けるぼくに手紙を添えてバレンタインデーにチョコレートを送ってくれていた。
「いつの手紙のことだろう? 何て書いてあった?」
「小三の時の手紙だよ。叔父さん、大人に書くみたいな手紙を書くから、私、当時よくわからなくて。でもお母さんが、弟はすごく不器用だからねって言って、一緒に手紙の意味を考えて、教えてくれたの」
小三の楓からの手紙には「勉強を頑張っていること」「学級委員長を頑張っていること」なんかが書いてあった。旦那さんも、ぼくの姉も、とても教育に厳しい。楓が頑張っているのは、よくわかった。
「お返しの手紙にはね、仕事とか勉強っていうのは一生懸命にやらないと返って疲れるんだよってことが書いてあったんだ」
「楓は、今もだけど、当時も十分頑張っているのは、離れていてもよくわかっていて。だからぼくからは、更に『頑張れ』とは言えないけど、楓は頭の良い子だから、サボることは覚えて欲しくなかったんだ」
「それから、太宰治の言葉もあったよ。太宰治って、お母さんたちの街出身なんだってね。今度、お爺ちゃんの家に行くときまでに、小説も読んでみようと思っているの。そっちの方は、毎日その日やることを頑張った上で、他人にも優しくするんだっていう言葉」
「頑張ってるからといって、優しくされて当然と思っていると、優しくされないってことで気持ちが歪んでしまうけれど、一生懸命頑張った上で、他人にも優しくできる強さをもって欲しかった。学生時代の自分への戒めでもあって。勉強はしていたけど、心は荒れていたからさ」
「叔父さんがグレてたの? おかしいのね」
その頃のぼくは、グレていた。学生の頃という意味ではなく、楓と会う少し前から、職場で突然に、誰にも優しくできなくなった。他人に優しくできない自分自身に恐怖を感じていた。
仕事での頑張りは評価されず、自分が振り絞った優しさも相手に理解されずに、このまま辞めてしまおうかと思っていた。でも、結局、頑張りが認められなくても頑張り続けること、優しさが伝わらなくて優しくし続けることにしかないようだった。それが、不器用なぼくにできる唯一の生き方だった。そのことを、楓と数年前の自分は思い出させてくれた。報われないことに、根気で立ち向かうしかないのだった。ぼくは花火にはなれないのだ。
「久しぶりだけど...」と言って、楓は、別れ際、チョコレートをくれた。それは、ぼくの人生で一番甘いチョコレートだった。
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