「東京の海も、こなぁに穏やかなんじゃろうか」
体の弱かった彼は、
高校に進学しても、
部活には入らなかった。
海が好きだった彼は、
放課後はよく港の防波堤で、
読書をしていた。
幼馴染の私は時々、
彼の居場所に近づいて、読書の邪魔をした。
でも、夕凪のように穏やかな彼は、
私の愚痴に付き合ってくれた。
彼といる時の自分が、一番好きな自分だった。
彼のお母さんの美容室で、
私はずっと髪を切ってもらっていた。
私が行くと、お母さんは、「挨拶しよ」と彼を呼び出して、
彼は目も合わせず挨拶をした。
防波堤とは別人みたいなコミュニケーションだった。
1度だけ、
彼に前髪を切ってもらったことがある。
「前髪が決まらんけん、1cmだけ切ってよ。美容師の息子じゃろ」
冗談半分で言ったら、丁寧に私の前髪を切ってくれた。
夕焼けの港で。
赤く照らされた彼の手が優しく私の髪に触れてドキドキした。
彼が切ってくれた前髪は、水平線のようにまっすぐだった。嬉しかった。
高校を卒業したら、
東京の美容師の学校に行きたいと思っていると教えてくれたのは、
その少し後だった。
なんで東京だったんだろう。
その理由を私はもう知ることはできない。
彼のお母さんから電話があって、
急いで病院に着くと、
彼は人口呼吸器をつけられ、
眠っていた。
心電図は静かに波打ち、
その波は、小さく小さくなっていく。
どんなに強く願っても、
波が戻ってくることはなかった。
泣き叫ぶ私と彼のお母さんとは対照的に、
彼の顔はとても穏やかだった。
あちらにも海はあるのだろうか。
あちらの海は穏やかだろうか。
あれから5年が経ち、私は社会人一年目だ。
地元で就職した。
嫌なことがあったときは、
彼が好きだった防波堤で夕焼けを浴びる。
「私が切っても、あんたが切ってくれたような、まっすぐな前髪にはならんのじゃわい」
夕凪の海の水平線に、彼の不在を想った。
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