27歳、倦怠期や愛について
3ヶ月目で倦怠期が訪れるとはよく言ったもので。
そういえば、元彼と別れたのも3ヶ月目だったし、付き合ってはいないけれど、好きな人と揉めることが増えたのも気持ちを伝えてから3ヶ月を迎える頃。
どこか気が緩むというか、今まで大人しくしていた心のうちのヘドロのようなものが、沸々と湧き出てきてしまうタイミングなのかもしれないね。
それでも、2つの”3ヶ月”は、わたしにとって大きな違いがある。
元彼とは、話し合いができずに終わった。終わったというより、終わらせてしまったというべきか。
一緒にいる時間が増えるにつれて、気になるところが増えた。
言葉で伝えるも、どうも伝わらない。
伝わらないというより、聞いてもらえないに近い感覚。
元彼にとってわたしの言葉は雑音だったのかもしれない。
もちろん、当時のわたしは未熟で、伝え方も下手くそだった。
わたしは正論でズケズケと彼の心に入り込み、言葉で彼の尊厳を傷つけてしまっていたのだろうし
彼の聞く耳を持たない態度にわたしは傷ついていた。
そんなわたしたちの関係が成り立つはずもなく、先にわたしの心が疲れ、雑談すらできなくなり、別れを選んだ。
今わたしが好きな人は、賢く、論理的で弁がたつ。
彼と揉めるようになってから、わたしは立場が逆転したような気がした。
わたしが元彼に言っていたことを、彼から言われる。そのたびに胸がちくりと痛む。(正論だからね)
でも、だからこそ彼とは話し合いができる。
お互いが意思を持っているから、ぶつかることができて、解決の糸口を見つけることができる。
''愛''って、こういうことなんじゃないかしら(?)
相手と話し合い続ける覚悟をするということ。
あ、もちろんゴリゴリの主観です。
わたしは、課題解決を楽しみたいタイプだから、こういう対人関係が合っている気がするなというお話。
一緒にいて楽しい、落ち着くのは当たり前で、
その先何度も訪れる”話し合い”の時間から、お互いが逃げずに向き合い続ける覚悟。
う〜ん、また人生を難しくしているでしょうか。
彼を好きになって、学んだ倦怠期の乗り越え方がもうひとつ。
”人間は考える葦である”
フランスの哲学者、パスカルの言葉。
まさにそうだな、と思う。
わたしたちは、考えることができる。
考えて、伝えることができる。
幸いにも、わたしは五体満足で、好きな人と同じ言語を使うことができる。
それなのに、考えること、学ぶことを辞めて関係を悪化させてしまうなんて、勿体無い。
これも主観でしかないけれど、わたしを守ってくれるお守り。
こうやって考えるようになってから、彼との関係で悩むことが幾分と減った。
悩んで、彼にぶつかりそうになったら立ち止まり、家にある本に手を伸ばす。
本は、何年も変わらずそこにあって、わたしたちのためになる言葉を設えてくれている。
一度立ち止まることで、彼に伝えるべきことは何なのか整理することができるし、建設的な話し合いができる。(気がする)
この方法を発見したわたしもブラボーなのだけれど、ここまで辿り着けたのは
どんな時も毅然として、論理的な言葉で状況と向き合ってくれる彼のおかげだと思う。
彼がもし、感情的になっていたら、わたしたちは大爆発していたに違いない。
彼の言うことは正論で、時々苦しいけれど、一貫としているのでありがたい。
”彼ならこう考えるだろう”が分かりやすい。
(そもそも、揉め事の多くは仕事絡みで、大抵のことは先輩である彼が正しいのだけど)
それに、彼と一緒にいない時間を学びに充てることで、必要以上に不安になることも減った気がする。
なんて健康的な活動なのだろう。
だから、最近本を読むのがともかく楽しい。
本を読むことが、自己投資であり
自分への''愛''なのだと気づいたから。
人生27年目、やっと少しずつ自分が穏やかでいられる方法や、心構えのようなものがわかってきた気がする。
あれもこれも、全ては彼らと出会えたからで
学ぶことができる''人間''という存在だからなんだよね。(なんだか壮大なお話になってきた)
何はともあれ人生ってたのしい。
そんなことを想いながら、読みかけの本に手を伸ばす。