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【美術とケア】映画「君たちはどう生きるか」を観て考えたグリーフケアのこと。

不覚にも冒頭のシーンから涙が止まらなくなりました。
自分の祖母がこんな恐ろしい光景の中で無念の死をとげたこと、そしてその娘である私の母がこういう形で「お母さんの死」を体験したことをしっかりとみせてもらったと思いました。その地はまさに地獄でした。


「母さんがいる病院だ!」
それは太平洋戦争真っ只中の時代。
空襲警報が鳴り響きます。
遠くに燃え上がる炎を確認すると、必死で逃げまどう人たちをかきわけ、お母さんを助けに行くのだと街中を夢中で走る主人公の眞人。
映画はそんな場面から始まります。


母は幼い私によく戦争の話をしました。
私はその話を夢中になって聞きました。
なぜだかすごく興味をもったのです。

私は、偏差値の低い都立高の全く勉強しないような生徒でしたが日本史の授業で戦争についてのレポートを書いた時たくさんの資料を読み、調べました。先生が「これは大学レベルの資料だ!よく読んだなあ」とほめてくださり、高評価をくださったことをこんな風にいまでも嬉しく覚えているくらい、頑張った思い出です。
母の戦争体験はとても私の心に響くものがありました。

そのうち母は「もう戦争のことは思い出したくもないわ」と言うので私もたずねることを意識して控えるようになりましたが、それでも「お母さん」の話だけは繰り返し私に話すことがありました。しかもいつもすねているような様子で不満ばかり言うので、子供みたいな母に呆れていました。そしてこんなに年をとってもやっぱり「お母さん」という存在は特別なんだなあと驚いたことをよく覚えています。

母は戦争当時学童疎開の対象年齢だったため新潟に約2年間疎開していました。(だから本当なら眞人も東京にいるはずはなかったのではないかなと思うのですが、なにか事情があったのかもしれません。)
新潟という寒い地域なのに100畳くらいあるお寺の部屋には火鉢一つしかなく、うすっぺらい洋服しか着ていなかったこと。数えるくらいの頻度だったけどお母さんが何かを持って会いに来てくれた時はとても嬉しかったこと。でも母は8人兄弟のほぼ真ん中くらいに位置するせいかほとんどお母さんにとって存在感がなく(と自分で言うのでした)すぐに帰ってしまって寂しかったこと。お寺にいた子供たちはみんな栄養がたりなくて細くて小さかったこと、そんなことを淡々と聞かせてくれました。

母には弟が三人いてまだ幼く、3人のお姉さんとお兄さん1人は小学生以上だったためお父さんやお母さんと一緒に東京に残りました。疎開先には母一人だけ。そんなことも疎外感を感じていたのかもしれません。
大空襲の時のことは疎開先から戻った時にお姉さんたちに聞いたそうです。

大空襲はまさにあの眞人が走った街中の様な状況だったのではないでしょうか。恐ろしいサイレンが鳴り響く中、家族皆一緒に手をつないで逃げたのだそうです。行き着いた先は小学校でした。
大勢の人々が小学校が安全だと聞いて一斉に逃げこみました。

「その時つないでいた手が離れちゃったのね」

母のお姉さんは幼い弟を必死に守りながら小学校の校庭に掘られていた防空壕に逃げ込みました。
その穴は本来何人かの体がしっかりと中に入れるくらい深いものだったと思われますが、あまりにたくさんの人たちが逃げ込んだため、弟をかばおうと上になった母のお姉さんは背中がすっかり外側に出てしまい、その直後近くに爆弾が落とされたために火の粉をあびて背中に大やけどを負いました。(でも下の方に入った人は圧迫されて亡くなった方もいたそうです。)

パニックになったたくさんの人たちは小学校の体育館に逃げ込みました。
体育館の扉は折り畳み式で、扉が開く時に手前に空間がないと折り畳んだ分を収納出来ず、開かなくなります。
体育館にはぎゅうぎゅうに入れるだけ人が押し入り、もうパンパンになるとしっかりと扉が閉じられてしまい、中から開けられない状態だったのだそうです。
その状態のまま近くに爆弾が落とされました。
中にいる人は誰も逃げることができませんでした。

母は疎開先から帰ると「お母さんはたぶん体育館の中に逃げて中で亡くなったのだろう」と告げられます。

焼野原やけのはら」と母はよく言いました。
すべてが焼かれてしまい今では信じられないくらい遠くの土地まで見えたといいます。生きていくのもやっとの毎日。明日の生活もままならずぼろぼろのあばら家で、甘いどころか味もそっけもない配給のかぼちゃを食べ飢えをしのぐ家族。お母さんが亡くなったことを悲しむ余裕もない家族。

母はお母さんの遺体を一度も見ることはありませんでした。
実際にはどこでどうやって死んだのかもわからなかったため、死んだなんてウソで、ひょっこり帰ってくるのではないかと毎日お母さんの帰りを待ったのだそうです。
その時母は12歳。ちょうど眞人くらいの年齢でした。

映画の中で眞人もお母さんの遺体をみることなく死を告げられます。でもアオサギに「お母さんは生きている」と言われ最初は半信半疑ながらもお母さんに会いたい一心で「お母さん」を探しに行くのでした。
それは「本当のお母さん」でもあり「夏子お母さん」でもあり、どちらにしても眞人の心の中にある「死生観」を超えるべく旅なのでした。
それからはまるで夢の中での話のような奇想天外な場面が続きます。それは現実にはありえないような世界でありながら、しかし眞人にとっては越えなくてはならない真実の世界であるからでしょうか、
眞人がなんの疑問も持たずにどんどん進んでいくことに不思議と勇気づけられました。

ああ、これはまさに母が望んでいた世界ではないだろうか。この映画を母にみせてあげたかったと何度も思い涙があふれました。
この映画を母が観たら、母にとってのグリーフケアになったのではないだろうか
と感じたのです。


そして改めて考えていました。

「死」とはなにか。

「死」に関して母は生前私に言ったものです。「子どもたちに死の事なんて話してはだめよ」と。
母の気持ちもよくわかりました。そういう考えは以前はきっと一般的だったと思います。生理のことを「隠さなくちゃいけない」と教えられてきたように、タブーとされる世界だったのでしょう。
でも「死」はタブーなんかじゃない。
この映画をみて、より確信しました。

母親の「死」は周りが思っている以上に眞人をうちのめします。
お母さんがいなくなったから新しいお母さんが来れば解決するというのは「本当のケア」ではないのに。
眞人はそこからの旅路に出発します。
「死んだはずのお母さん」を探しにいくことから考えると最初は「あの世」への道、「死」への旅だったかもしれません。
しかし、眞人の決意は本人も知らぬ間に「生」への旅へと大きく舵を切り、同じ方向ではあるけれども「意味合いの進行方向」を全く違う方へ変えていくのでした。

新しい生命を生み出すということからも「お母さん」は「生きる」根源であり象徴であり、眞人にとって「お母さんをさがす」というのは「生きる」ことへの渇望だったのだと思います。

アオサギは邪悪なようでいて、結果として眞人に「本物のケア」を施していきます。「生きる」の土台がしっかりと形成されていく過程には常に「死」が隣り合わせにあることをところどころにちりばめながら眞人は「死」を乗り越え「生」を得るためにたくさんの「愛」を受け取っていくのです。
また、その愛とは、自分からのそれも含むことを、自傷した頭部の傷が治っていくことで表されているように思います。



「君たちはどう生きるか」という問いは
どんな職業につくのかとか、どんな立派な人間になるのかとか、どんな思いを貫くのかとかそういう問いではなく、それ以前にある、人間として一番大事な軸を形成したうえでの生き方を問うているのではないか。
それは生の象徴である「お母さん」という存在がどうしても関わり、死生観につながっていくのではないか。
と感じました。

私の母が、89歳という高齢になっても
12歳の時突然いなくなった母親のことをずっとこだわり続け、愛されていなかったと言い、最期に「生まれてこなければよかった」という言葉を叔母に託しながらこの世を去ったことを知った時
母は「お母さん」が納得をいかない形で死んだことによって乗り越えられなかった死生観を持ち続けていたのではないかと考えさせられました。そしてそれが人間が生きる上でどんなに大事かということを教えられた気がしました。


君たちはどう生きるか。
世の中はますます便利にわかりやすくなり、矛盾するようですが同時に複雑化していくでしょう。そして私たち人間が本来感じてきた感性を単純化させてあたかも私たちを楽にさせてくれるかのように見せかけて、でも実はそれはもともとあった複雑さをみせなくしただけで、複雑な中に含まれていた本当に大事な事に気づかない人間に変えてしまうものなのではないか。
人間として本当に大事に考えなければいけないことがないがしろになっていくのではないかと私は危機感を感じているのです。

その進化は本当に人間を幸せにするのか。本当に真のケアとなるのか、考えることを止めず、油断してはならないような気がしています。

時代が変わってもきっと本質は変わらない。

私は真実のケアが見分けられる人になりたい。
大事なことを見失わずに生きていきたい。


この映画をみて重く強く心に残ったのはそんな思いでした。


綺麗な海の写真はサファリサファリさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございました!


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