天敵彼女 (20)
俺が女を天敵だと思うようになったのは、ある疑問がきっかけだった。
妻であり、母だったはずの毒母に、どうしてあそこまで酷いことが出来たのか?
俺は、ずっとその答えを求め続けてきた。
人生最大の理不尽と言ってもいい毒母との記憶。そのフラバ震源地に、自分なりの折り合いをつける為、どうしても必要だと思ったからだ。
残念ながら、俺には当時の詳細な記憶はない。子供だったこともあり、恐らくたくさんの事を見落としているだろう。
そんなあやふやな状態で、人生最大のトラウマと向き合うのは無謀かもしれないが、そうでもしないと憎しみに心をやられそうだった。
それだけ俺は毒母のした事に納得がいかなかった。
恐らく、あれだけの目にあわされるような非は、俺にも父さんにもなかった。
少なくとも父さんは、仕事も家事も必死に頑張っていた。それは、俺の為でもあったかもしれないが、大半は毒母の事を想っての行動だったはずだ。
毒母がぶち壊そうとしたものの中には、ささやかな暮らしや自分を大切に思ってくれるぬくもりがあった。
それを一方的に憎み、裏切るのは本当に酷いことだ。
俺には、優しい善意にあれだけの敵意を返す人間の気持ちが理解できない。
どうして毒母はあそこまでの事が出来たのか?
人はそんなに簡単に情を捨てられるものなのか?
その理由を考えていく内に、俺は一つの仮説に行き着いた。
毒母が元々俺達の敵だったとしたら?
そう考えた時、俺は目の前の霧が晴れていくように感じた。
毒母は、最初から敵だった。敵だったにも関わらず、父さんと出会い、妻になり、母になった。
それは、何かの間違いだったとしか言い様がなく、全ての悲劇の元凶だった。
毒母は、初めは自分も望んでいたはずなのに、父さんとした約束を重荷に感じるようになった。
何故だ?
敵の善意程、疑わしいものはないからだ。
毒母は、きっとリアルを求めたんだと思う。天敵同士が向かい合ったからには、やるかやられるかでなければおかしい。
家庭は暖かなものであるべきかもしれないが、毒母にとっては生温い嘘だらけの世界だったのだろう。
敵への情けは時に侮辱になる。
そのせいか、毒母という特殊な個体は、父さんが頑張れば頑張るほど、苛立ちを募らせていった。
配偶者に向ける当たり前の愛情表現であっても、毒母にとっては毒だった。
嘘偽りを長引かせるだけの不毛なやり取りに、心底うんざりしていたのだろう。俺や父さんに向けた毒母の視線からは、言い様のない憎悪がにじみ出ていた。
毒母を突き動かしていたのは、敵としての本能だったのかもしれない。父さんが自分を大切にすればする程、毒母は攻撃材料がなくなる。
毒母は、敵を攻撃できないジレンマから、あんなに不機嫌になり、最終的には全てを破壊し尽くそうとしたのかもしれない。
そう考えた時、初めて俺は毒母の行動を説明できた気がした。
それだけ、毒母の行動は常軌を逸していた。
父さんに愛情がなくなったとしても、もっと相手を傷付けない別れ方があったはずだ。
俺を引き取るつもりがなかったとしても、あそこまで自分の子供を傷付けなくても良かったはずだ。
どう考えてもまともじゃない毒母の行状に、俺なりの合理性を持たせるためには、本来敵であるはずの存在が、何かの間違いで妻になり、母となってしまったと考えるしかなかった。
毒母の破壊力はすごい。まるで、俺達を破壊するために生まれてきたような火力だった。
その事から、俺の中で毒母を「敵」から「天敵」に格上げせざるを得なかった。
毒母=天敵が確定した瞬間だった。
それから、何か嫌なことがある度に、天敵の適用範囲が広がっていった。
毒母という特殊な事例に留まらず、同じ特徴を持つ存在も天敵になっていった。
それは、驚くほどのスピードで全体化し、今では家族認定している奏と八木崎のおばさん以外の女は天敵になった。
俺にとって、今や世の中の半分は恐怖の対象だ。我ながらひどいありさまだと思う。
でも、俺は自分を一方的な被害者だとは思わない。
俺は、女子を人一倍泣かせてきたからだ。
女性に対するトラウマがある俺は、告白してきた女子達を振ることでしか自分を保てなかった。
俺は、どんなに真剣な告白もいつも断ってきた。
自分でも酷い人間だと思う。
いつしか、俺も女子にとって天敵なんだろうと思うようになった。
俺は、自分に関わろうとする女子にとってひどい人間だ。
でも、俺だけなんだろうか?
八木崎のおばさんを傷付け、奏にトラウマを植え付けたのは、俺とは違って一人でも多くの異性を受け入れようとする人だった。
その人は、どうすれば女性の気持ちを自分に向けられるのかを、常に考えているようなタイプだったそうだ。
その努力が実り、結婚してからも次々と新しい恋を見つけ、妻を裏切り続けた。
離婚の直接の原因は毒母だが、毒母が何人目だったのかは誰にも分からない。
その人は、俺とは違うやり方で、女の敵になったという事だ。
突き放し過ぎても敵。寄り添い過ぎても敵。
どんなに良好な関係を維持していても、終わりは突然訪れる。
絶対に過ちを犯さない人間なんていないからだ。
そう考えると、男はいつだって女の敵になり得る事になる。そして、それ は俺や奏の生物学上の父親のような両極端な例だけが問題じゃない。
男が男であり、女が女である以上、いつ敵対するか分からないんだと俺は思っている。
現に、俺は毒母みたいな振り切ったヤバい人だけじゃなく、その辺を歩いているような普通の女性から語り尽くせない程の「被害」を受けてきた。
俺の中のトラウマを差し引いても、これはひどいありさまだ。
だから、俺は女を信じない。女にも俺を信じて欲しくない。俺が望むのはあくまで互いに無害な存在でいる事。それには、距離が必要だ。
幸い俺は女子と無理矢理付き合わされることはなかった。色んな噂を流されながらもすべて断ってきた。
ひどいプレッシャーの中、心が折れそうになった事もあった。形だけでも取り繕えば楽になれると考えたこともあった。
それでも、俺は一人でいる事を選んだ。どうしても、天敵に捕まる事だけは避けたかったからだ。
俺には、どうバランスを取れば男女が味方でい続けられるのかなんて分からない。
間違いなく、女子と付き合った瞬間、俺は疑心暗鬼に囚われるだろう。
どんなに振り払おうと思っても、嫌なイメージが次から次に浮かび、俺は彼女との時間を一切楽しめないだろう。
多分、彼女は俺に失望する。こんなはずじゃなかったと俺を責める。最後まで、俺は彼女に心を許すことが出来ず、最後は自分から離れていって欲しいと思うようになる。
そんな俺と関わった彼女はきっと不幸になるだろうし、俺の精神も削られる一方になる。
最悪の逆WIN―WIN関係の爆誕だ。
そんなリスクを背負ってまで恋愛などするものではない。
男と女は混ぜるな危険が、俺の中の動かしがたい真実だ。
これは、あくまで俺という壊れたフィルターを通して見た世界観なのかもしれないが、最悪を知る人間にとって、男女関係はいつだって不穏だ。
不安で、恐怖で、自分で自分を信じられなくなる苦行だ。
大半の人は気にもしないだろうし、気になったとしてもいつか慣れてしまうだろう。
でも、俺には無理だ。俺は女が怖い。それはずっと変わらない。
俺の中で、男女はいつだって関わり合いにならない方がいい天敵同士で、お互いにとって有害な存在だ。
世間でいう恋とか愛なんて、人口問題を解決するための方便に過ぎないと思っている。
俺にとって、男と女が揃わないと解決できない命題Xなど知ったことではない。
世間のプレッシャーも、動物としての本能も、天敵を天敵として認識できなくする為の目くらましでしかない。
俺は、きっと女を信じられない。何を言われても嫌なイメージを捨て去ることなんて出来ないと思う。
そんな壊れた人間に、人を幸せにするなんて無理だ。
だから、俺には構わないで欲しい。
既に、俺の気持ちははっきりしている。問題は、そこにどうオブラートをかけるかという事だ。
俺は、これからなるべく敵を作らない表現で、天敵に俺の気持ちを伝えなければならない。
自分のやるべきことに集中するためだ。
俺は、不当な干渉を払いのける為に、初めて行動しようとしていた。
「これから叶野に話をしてもらおうと思う。叶野、前に来なさい」
担任が俺を呼んだ。
俺は、立ち上がると、教壇に向かって歩き出した。
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