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天敵彼女 (79)

 それは、わざわざ聞くまでもない質問だった。

 秘書さんがお酒を飲んだ時点で、今晩ここに泊まるのは確定していたが、俺は一応父さんにどうするのかを聞いた。

「泊まるよ。もう遅いし、向家さん運転できないだろう?」

「それはそうだけど、布団はどうするの?」

「ああ、それは大丈夫だ。ちゃんと用意しておいたから」

 俺は、父さんのドヤ顔をスルーすると、広間に向かい押し入れを開けた。中には、真新しい布団がぎっしり詰まっていた。

 きっと、ゴールデンウィークの計画を立てた時点で、慌てて用意したのだろう。売場からそのまま運んできたかのように、全てが布団袋に入ったままだった。

「これ、全部買ったの?」

 俺は、少し遅れてやってきた父さんに訊ねた。父さんは、益々ドヤった感じになった。

「おばばの家にあった寝具は、ちょっと使えそうになかったし、ちょうどいい機会だと思ってな、一式全部揃えたんだよ。」

「どこで買ったの?」

「ここから車で三十分位の所にあるホームセンターだよ。そこで布団買うと、古い布団をタダで処分してくれるって言うし、軽トラも無料で貸してくれるっていうから、思い切って全部買い替えてみたんだよ」

「ふーん、買ってから何かした?」

「何もしてない。ここに入れただけだ。でも、考えてくれよ。新しい布団をホームセンターで買って、軽トラに積んで。本家で全部下ろして、押し入れの布団を一人で運び出して軽トラに積んで、それからホームセンターに軽トラで戻って、古い布団を引き取ってもらって、それから自分の車で帰って来て……もう押し入れに詰め込むだけで精一杯だよ」

 何だか、聞いてるだけで疲れる話だと思った。父さんがあれだけドヤっていた理由がやっと分かった。

 確かに、それなら仕方がないと思った。俺は、何か申し訳ない気持ちになった。

「それはそうだね。何かごめん……でも、これカバーかけてないよね?」

「えっ? ま、まぁな」

「どうする? 全部俺がやっとこうか? それとも奏達に手伝ってもらう?」

 父さんは、しばらく考え込んだ後、腕まくりをした。

 それから、俺達は。広間に布団セットを運び込み、カバーをかけていった。地味にきつい作業だったが、途中から奏も手伝ってくれたので、思ったよりも時間はかからなかった。

 それから、昼間にシャワーを浴びた俺と父さんは、そのまま寝る支度に入り、奏達は順番に風呂に入った。

 この時点で、男性陣と女性陣の間の襖を閉じて、広間は二つの部屋になっていた。

 幸いな事に、この家には昔ながらの薪風呂ではなく、自動追い焚き機能もついたガス給湯器が付いている為、奏達が風呂に入っている間、俺達は完全ノータッチでいる事が出来た。

 父さんと俺は、素早く着替えを済ませると、速攻で歯磨きを済ませた。

「じゃあ、電気消すぞ」

「うん、早いね」

「さすがに疲れたよ」

「そうだろうね」

「おやすみ」

「うん、おやすみ」

 俺は、布団に入ると天井を見上げた。

 この家に泊まるのは本当に久しぶりだ。あの頃は、おばあちゃんがいて、まだ毒母もおかしくなる前だった。

 本当に、どうしてあんなことになってしまったのか未だに分からないが、結局答えなど出ないのだろう。

 それは、俺がトラウマを抱えているせいで、認知能力に何らかの歪みが生じているせいかもしれないが、最近そればかりではないかもしれないと思い始めている。

 おばあちゃんの、全てを理解しようとしてはいけないという言葉が、どこかで引っかかっていた俺は、ネットを中心に色々な情報に当たってみた。

 その中で、興味深かったのは、人間が一秒間に接する情報量は、自分で処理できる何白年分にもなるというものだ。

 これが本当なら、人間は天文学的な情報を未処理のままただただ捨てている事になる。そんな状態で、一体何が分かるというのだろう?

 これは、どんな育ち方をしたとか、本人の気質や才能的な事を考慮したとしても、ほとんど誤差にしかならないレベルの話だ。

 これでは、人は生きている限りとんでもない情報過多に晒され続け、いつパンクしてもおかしくない事になる。一寸先は闇が一生続く訳だ。

 そんな中で、前向きな人もいれば後ろ向きな人もいるが、そんなものに根拠などないのだろう。

 情報全スルー状態の俺達が、正常な判断を下しているとは考えにくいからだ。

 もしかしたら、自分の中で信じて疑わない事であっても、ただの思い込みか、たまたまそう見えた程度の印象に過ぎないのかもしれない。

 俺が恋愛にネガティブなのは、過去のトラウマと関係している。それは、偶然そういう出来事があっただけで、これから先もそうなのかは分からない。

 少なくとも、毒母と奏は違う。奏は、俺を邪魔にした事はない。絶対そうなるとは言えないが、多分俺を大事にしてくれると思う。俺も、奏の事は大切だし、父さんも、縁さんも応援してくれている。

 俺は、恐らく幸せに向かっているはずなのだが、全く実感がない。
過去の特異な体験が、俺には良い事が起こるはずがないと思い込ませているからだ。

 人は、人生の最初に見たものを過度に信用してしまう。それは、たまたま最初に投げたコインが裏だったせいで、それ以降もずっと裏が出ると信じ込んでいるようなものだ。

 当然、コインはいつも裏ではない。裏が出るのと同じくらい表も出ているはずだ。

 問題は、印象なんだと思う。脆弱な情報処理能力しか持たない人間は、大量の情報の中から見たいものだけを見ようとする。

 俺も、幼少期にコインは裏だと刷り込まれることで、仮に表が出ても裏だと思い込まされているのだろう。

 もしかしたら、何の根拠もない予期不安に振り回されているだけなのかもしれないが、この呪縛は本当に強力だ。

 俺は人生の最初期に、求めた愛情は決して得られないのだという、強烈な先入観を植え付けられてしまった。

 それ自体にどこまで根拠があるのかは分からないが、俺にはそれ以外の可能性に目を向ける余裕がない。

 恐らく、俺はこれから先もずっと裏だけを見続けて生きていくんだろう。自分でもくだらないと思うが、どうにもならない。

 出来れば、あの頃に戻って人生をやり直したいとは思うが、時間を巻き戻すことは出来ない。

 俺に出来るのは、トラウマとなった記憶と向き合い、精々酷いフラバが起こらないようにすることなんだと思うが、それすら簡単な事ではない。

 今日話を聞いて分かったことだが、俺と奏では毒親からの回復レベルが違うらしい。

 お互い片方の親が毒な訳だが、俺は被害を受けたまま時間が止まっているのに対して、奏はトラウマの原因と対峙し、はっきりと拒絶の意思を伝えたそうだ。

 そんな事、俺には無理だ。俺は、奏とは違う。ずっと日和って、ヘタレているだけの俺と、自分の足で前に進み始めている奏では、これから先の人生は全く違ったものになるだろう

 今のままでは、俺は奏の隣を歩くことは出来ない。遠からず、奏の負担になる日が来ると思う。

 だから、そんな事になる前に、俺は自分の場所に戻るべきなんだろう。

 でも、あの日暗い部屋で膝を抱えている事しかできなかった俺は、明るい世界を知ってしまった。

 今や、俺にとって、父さんがいて、縁さんがいて、奏がいるのが当たり前で、それが俺にとっての「家族」なんだと思う。

 いつか全てが元に戻るのだとしても、俺はこの時間を大切にしたい。

 問題は、俺が一緒にいられる間に奏に何を残せるかだ。出来れば、俺があの日助けてもらったように、俺も奏の助けになりたいと思っている。

 そんな事を考えている内に、すっかり目が冴えてしまった。この感じは、しばらく眠れそうにない。

 今日は、結構頑張った。多分、身体は疲れているだろう。そろそろ寝ないといけないとは思うが、今はそんな事より喉が渇いた。

 俺は、なるべく音を立てないように部屋を抜け出すと、台所に向かった。

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