榊原哲也共著『現代に生きる現象学』について
放送大学を通して学んだ現象学としては、『現代に生きる現象学』と『ドイツ哲学の系譜』第12章フッサール現象学である。竹田青嗣から現象学を学んだ者としては、親和性を感じたのは、前者であった。
標準的なフッサール現象学派からすれば、竹田青嗣の解釈は異端であり、学者によっては、学生に読むことを薦めないということを聞いている。竹田青嗣自身も西研と共有しているフッサール現象学解釈は、他の人たちとは違うということを、書籍、ネット等で広言している。
そうした感覚がある中、榊原哲也のフッサール現象学は、竹田青嗣の解釈との相違は、ほとんど感じられなかった。
竹田青嗣は、ハイデガーについては、『存在と時間』での本質観取は見事であると認めているが、後期思想となると、「形而上学的独断論」に舞い戻ったとして、現象学を退歩させたとしている。
そうした意味でも、『現代に生きる現象学』はハイデガーの後期思想には、立入らないというスタンスを取っているところに、同調できた。
いずれは、人は死ぬのであるから、それをあらかじめ決意して、日常生活で頽落した姿から、本来的な人間に戻るべきである、というのがハイデガーの後期思想(実は、『存在と時間』でも匂わせていた)なのであるが、看護のケアとしての範囲では、あくまで日常性でのケアとなる。以前のブログでも書きましたが、再掲します。
看護学において現象学という哲学が注目されるようになったのは1970年代の英語圏においてである。看護師は、日頃、患者を観察してきた経験から、当時者としての視点から記述し理解しようとする手段として現象学の方法に期待をよせられた。
本書は、ハイデガー「解釈的現象学」の流れに属するベナーの看護理論に注目し、現象学が彼女の看護理論においてどのように生かされているのかを考察した本である。
なぜ、ベナーは現象学を看護理論に導入したのだろう。彼女によれば、「細胞・組織・器官レベルでの失調の現れ」としての「疾患」に対して、疾患によって生じる「〔能力の〕喪失や機能不全をめぐる人間的経験」としての病に着目し、病いへの「対処」として看護実践を捉えようとしたからである。
医師は、治療によって対処可能だが、病は、患者個人的な意味経験なので、医学的に治療することができない。したがって、うまく対処して乗り切っていくしかないわけであり、その手助けをするところにこそが看護の本領である。
病の意味経験を理解するために、ベナーは、ハイデガーの存在論的現象学を高く評価するドレイファスから学んだことをベースにして看護学を構築した。
ベナーが「現象学的人間論と看護」で提示している現象学的人間観は、まず人間を「自己解釈する存在」として捉えたうえで、「身体化した知性」「背景的意味」「気づかい/関心」「状況」「時間」という五つのポイントを捉えうるものだと理解している。
本書は、この五つのポイントを全て、その概要をまとめつつ、ハイデガーやメルロ・ポンティの現象学をどのように受容したかを解説している。さらに、看護師による具体的な経験と実践を例にあげたり、看護師をインタビューして理解を深め合っていた。
哲学は、何の役にも立たないという定説があるなかで、1970年代から、すでに現象学を応用している事実があるということが、印象的でした。
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