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哲学者間の見解の相違


本日、書こうとしているのは、永井均(著)『世界の独在論的存在構造』で、中島義道(著)『70歳の絶望』の内容について、見解の相違があることを指摘していることについてです。

いずれも、難解なことなので、受け流していただけだったが、どうしても気になっていたため、今回は、清水の舞台から、飛び降りるつもりで挑んでみることにした。(大袈裟な)

中島氏は、多作の哲学者なので、本格的な哲学書のみではなく、一般向けの著書も多く出版していたため、かなり以前から読んでいたが、永井氏の著書は4年前に『世界の独在論的存在構造』を読み始めたばかりなので、どうしても中島氏よりとなっていたのを、どのように、調整することになるのだろうか。

永井氏にとっての哲学上のテーマは、〈私〉という山括弧付きの私について、そして、同じく〈今〉についても徹底的に探究することである。

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ところが、永井氏自身は、この探求を他の人はだれも行わないことに不思議さを感じている。

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永井氏としては、自分が言おうとしていることは、本質的に真実であることを確信しているのであるが、どうも他の人に、その内容を誤解をされ続けてきたと述べている。

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その具体例として、中島義道氏の著書『70歳の絶望』から引用している。

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こうした、中島氏の主張に対して、次のように答えている。

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どのように、誤解しているのかは、本書を全て精読すると分かることではあるが、細かい議論は抜きにすると、永井氏の見解は下記のようになる。

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確かに、中島氏の〈私〉と〈今〉の捉え方は、「この赤」や「この痛み」のような、「純粋の個物」を示しているのに、対して、永井氏の捉え方は、〈私〉及び〈今〉という、特殊で例外的なものが何故、存在しているのかという驚きの問いであり、捉えている問題が違うということである。

さらに、具体的に提示している。

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〈〉と「」の括弧の区別についても、両者には相違がある。

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そして、哲学の専門家であればこその誤解もあるというわけである。

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さて、存在という概念ということになると、ハイデガーの『存在と時間』が気になる。苫野一徳氏が、竹田青嗣氏の著書『欲望論』を解説しているが、その中に、ハイデガーについて論じているので引用した。

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フッサールにはほとんどなかったこの「欲望論」的観点を、ハイデガーは現象学にもたらしたのだ。

これはニーチェが先駆け、フッサールを経てハイデガーによって再定式化された原理であると言っていい。

 この点を、竹田は高く評価する。

しかしその一方で、ハイデガー哲学には隠しようのない「本体論」への意志があった。

 彼は現象学を一歩おし進めたと同時に、二歩も三歩も退行させてしまったのだ。

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後期になればなるほど、ハイデガーのその傾向は強くなる。

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一切の存在者を可能にするものとしての「存在」。これはまさに、かつてニーチェによって解体されたはずの「本体」にほかならない。

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われわれが欲望=意識存在である以上、この欲望=意識の背後に回って、それを「可能にしているもの」(先構成しているもの)を知ることはできない。(引用終わり)


哲学とは、自由という概念についてならば、ホッブス、ルソー、カント、ヘーゲルと、受け継いでいって、人々が納得できる共通認識となるように、思考する営みでもあるはずだが、一般人どころか、哲学者まで、納得できずに誤解する独在論というのは、竹田氏が批判している独我論や相対主義と同等となるのでは、というのが当方の理解ではある。下記の森岡氏のように、一定の理解を示している人々もいることは事実である。哲学者とは、人々が気づかない独自なことを発見する営みでもあり、一概に、これとは言えないことなので、この程度のことしか、書けないが、今後も勉強を続けていき、理解を深めるしかない。その意味で、森岡氏の論文を掲載することにした。途中省略した箇所には入不二基義氏の英文論文"From De Se to De Me"も引用されていて、複雑極まりない論文となっているので、頭がしびれました。


下記は森岡正博氏が永井氏について論述した論文『この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味  -「独在性」哲学批判序説』より引用した。

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(この間、永井氏の独在性について解説しているが、省略する)

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(引用終わり)


森岡氏の本論文は、1993年3月13日時点での見解なので、永井氏が2018年8月13日に発行された『世界の独在論的存在構造』についての批判については、著書を調べてからとなるが、基本的な事柄についての変更は無いだろうという想定で、本論文を勉強用として、引用した。














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