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「死」について

今回は、人にとっては、最も考えたくない「死」をテーマとします。
2023年8月24日現在で、77歳となった身としては、「死」については、遠い将来のこととして、隠蔽できる問題ではなくなった。

70歳になったときに、図書館カードを発行してもらい、期限を確認すると、10年間有効となっていた。あれから7年後の今、このカードを見ると、3年後に、果たして更新することができるのだろうか、と訝しく思うようになっている。

「死」について、哲学者ハイデガーは、下記のように実存論的分析をしている。

  1. 観念としてのみの存在:人は、誰も死を経験したことがなくて、観念として知っているだけである。

  2. 交換不可能性:言うまでもなく、自分の死は他者とは交換はできないということ。

  3. 没交渉性:死が切迫するときには、孤独となり、他者とは交渉することができない。

  4. 確実性:人は普通の状態では深刻に考えていないが、心の奥底では、自分はかならず死ぬものだということを承認している。

  5. 無規定性:人には平均寿命というのがあり、そのときまでは死ぬことはないだろうと思いつつ、突発的な事故などがあり、死ぬ可能性もある。こうして、死の確実性には、無規定性も含まれている。そのため、人は、死の切迫性をわれ知らず隠蔽する。

  6. 追い越し不可能性:人が生きていく上で、死は最後の可能性である。したがって、誰もこれを追い越すことはできない。

  7. 不安の気分の源泉:死の切迫性などが、人を不安な気分とさせる要因となっている。

「死」といえば、病院が絡んでくるケースが多いが、疾患では「細胞、組織、器官レベルでの失調の現われ」については、医学機器で測定し、生死の判断することは可能だ。

診断の結果、看取りが必要となった場合は、「疾患によって生じる身体能力の喪失や機能不全をめぐる人間的体験」としての病に対処するのは、看護師が実践する。

放送大学の印刷教材の『現代に生きる現象学 ー意味・身体・ケア』では、とくに「ケアの現象学」に注目して、哲学者フッサールが成立させた「現象学」を現在の看護に、どのように生かしているかを解説している。

この教材によると、患者が苦しんでいる病という意味経験を理解するために、現象学を応用する、としている。具体的には、フッサールの現象学を学んでいた、ハイデガーが提案した「現象学的人間観」を取り入れている。

看護師による看護ケアには、二つの極端な方法が述べられている。

  • 第一タイプ
    患者に代わってその人が気遣うべきことがらのなかに飛び込み、それを引き受ける。たとえば患者の疾病が重篤で人の助けが不可欠な場合、飛び込んで、それを引き受けるしかない。

    これは、介護の場合も、同様である。利用時間外に、利用者から、突然電話がかかってきて、対応して欲しいと懇願された時は、引き受けざるをえないことが多々あった。

  • 第二タイプ
    患者が抱く気遣いを取り去るためではなく、むしろその気遣いを患者に本来的に与え返すようにする、つまり、患者がこう在りたいと思っている在り方でいられるよう、患者に力を与える。

第二のタイプは、下記に示すように、ハイデガーが含意していた意味とは違い、あくまで、看護師としての、可能な範囲のケアに留まざるえない。なにしろ、死に関わってくる問題であるから、致し方ない対処法だと思われる。とはいえ、病院は、常に、死と向かいあっているわけだから、放置できない問題でもあるだろう。

(ハイデガーの論述においては含 意されていた)「他者の本来的気遣い」すなわち、他者の先駆的決意性に 関係するという要素 〈先に自分の死へと先駆して決意した現存在 が、自分自身の姿を相手に手本として見せ, そのことで,その他者もま た自分で自分の死へと先駆して決意し、 自己を本来的に気遣えるように する〉という要素を含み込んで理解してはいない。 あくまで, 「他 者の実存」すなわち患者の「こう在りたいと思う」気づかいを軸にし て,それを擁護し, 支援し、 促進しようとする気づかいとして,言い換 えれば患者を導くのではなく患者に寄り添う気づかいとして、第二のタイプの顧慮的気遣を捉えているのである。

現代に生きる現象学 ー意味・身体・ケア P160-161

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