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脳科学者が見た情動と感情

アントニオ・ダマシオ.著『意識と自己』に基づいて、情動と感情について学びます。脳科学者であるアントニオ・ダマシオは、情動を次のように説明している。

本物 の 喜び から 生まれる 自然 な 笑み、 あるいは 深い 悲しみ が 引き起こす 自然 な すすり泣き は、 帯状 回 領域 の 制御 下 で 脳幹 内 の 構造 により なさ れる。われわれには、直接これらの領域の神経的プロセスをコントロールする手段はない。情動の表出をうわべだけ真似ても、簡単にばれてしまう。顔のつくり方、声の調子など、いつも何かがうまくいかない。

アントニオ・ダマシオ. 意識と自己 (講談社. Kindle 版) (p.64).

本書の原本は2003年に講談社より「無意識の脳 自己意識の脳」として刊行されています。アントニオ・ダマシオは、「情動」と「感情」の定義を、国語辞典や心理学事典での定義と、かなり違うものとなっていて、神経学的見地から、根本的に改めることを提案している。

ある国語辞典の情動と感情の定義は

  • 情動:身体的表出を伴うような急激な感情の動き

  • 感情:快・不快を主たる意識のもっとも低い主観的な側面
    とある。

ある心理学事典では

  • 情動:情緒あるいは情動は、怒り、恐れ、悲しみなどのように急激に生起し、比較的激しい、一過性の心的作用をさす。表情の変化などの身体的表出を伴うことが多い。

  • 感情:情動に比較してその強度および身体的表出が小さく、一般には快ー不快の次元に還元できるもの
    と記されている。

いずれにせよ、情動と感情を分けているのは、基本的に強さ、激しさということになるから、情動と感情の境界はそれほど明解ではない。

われわれは、家族や親しい人を失ったときは、その喪失感から、慟哭の思いにかられ、心底から嘆き、悲しみの情動が生起するのである。この非意識的な情動のはじまりは、なぜ情動を意識的に真似することが容易でないかを示している。

これは、われわれは情動を「ならす」ことはできても、それを完全に抑制することはできないのであり、われわれは内にもつ感情はそれがうまくいかない証拠なのだ、とダマシオは言う。

サッカーやラクビーでジャパンが勝ったときの喜び、何かしらの不安で急に襲ってくるザワザワとしたものなどの情動的身体状態は神経信号や化学信号によって有機体の脳に即座に、しかも連続的に報告され、それに対応する心的パターン(イメージ)が脳内に生成される。

ダマシオは、脳の中に、情動的身体状態の表象(つまり感情)が形成されても、それが有機体に実際に認識されるかどうかは(つまり、その感情が感じられるかどうかは)別問題である、と考えている。

また、ダマシオは、次のように述べている。

私 は、「 感情」 という 言葉 は 情動 の 私的 な 心的 経験 に対して 使わ れる べき で あり、 他方「 情動」 という 言葉 は、多くが公に観察できる一連の反応を意味するために使われるべきであると提唱してきた。

アントニオ・ダマシオ. 意識と自己 (講談社. Kindle 版) (p.56).

自分の感情は他者から観察することはできないが、感情を生みだす情動(悲しんでいる様子、驚いて様子など)は他者からも、観察できるという意味である。

しかし、情動と感情は機能的連続体の一部であっても、その生物的基盤を研究してなにがしかの成果を上げるためには、その連続体の諸段階を区分けすることが有益だ。それは、重度の学習・記憶障害を持つ患者を観察、実験した結果、得ることができた知見である、とダマシオは言う。

科学の立場からは、実験を行うことによって、情動を検証するのは可能であるとする。一方、哲学者竹田青嗣氏によれば、情動、感情などの背後にまわることは不可能だが、情動を持っているということは、確かなことであり、これを始発点として、思考するという立場にある。

心の解明が生命科学の最後に未知の領域だとすれば、意識は心の解明における最後の謎と思えるが、ダマシオは、これに果敢に挑戦し続けていくということでしょう。

科学者が、情動について、どのように考えているかに興味があり、本書を手にしたが、まだ読了できていません。科学者と哲学者との思考の違いを知るために、取りあえず、情動をピックアップして書きました。

本書の一部を読んだ感想としては、ダマシオは、かなり哲学を熟知しているということでした。勿論脳科学的な部分を除いてですが、まるで、哲学書を読んでいるかのような錯覚に陥るほどでした。


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