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竹田青嗣(著)『 新・哲学入門』現象学的還元、普遍認識、本質洞察などについて

本ノートの下書きを作成済だったが、投稿する前に、哲学者の山口尚氏が、竹田青嗣(著)『 新・哲学入門』のコメント記事が投稿されたので、読むことにした。

さすがプロの哲学者だけに、冷静に竹田青嗣氏の著作を批判的に考察していた。

     「普遍認識」と「相対主義」――竹田青嗣『新・哲学入門』の批判的考察より

今年3月に初めて竹田青嗣氏の著作を読んで以来、彼を崇めたてまつってしまい、何の批判的な視点を持たずに、『哲学とは何か』の読書メモを作成した。

今回は、山口尚氏の記事を読み少し冷静にはなったが、新刊『 新・哲学入門』については、山口尚氏の批判的考察を、頭の隅に、おきつつも、力不足なので、竹田青嗣氏の主張をそのまま羅列することになります。


第一章 哲学の本質

21世紀の現在、哲学はその本質を見失い、自壊し、死に瀕している。

なぜか。

哲学の本義は普遍認識を目がける普遍洞察にある。だが、現代哲学では、稀な例外を除いて、哲学の根本方法を否定する根本方法を否定する相対主義がその舞台を席捲してきた。

普遍認識の否定、それが相対主義哲学の旗印である。それは現代思想の流行思想だったが、現代哲学の最大の病でもあった。だが、哲学の偉大な達成は、相対主義が克服された時代においてのみ現れる。

というわけで、竹田青嗣は、本書は、まさしくこの意味で、哲学についてまったく「新しい入門書」であるとともに、「新しい哲学の開くための書である、と主張する。

第二章 本体論的転回と認識論の解明


ギリシャのソフィスト、ゴルギアスの存在と認識についての三つの論証
①およそ存在と証明することはできない。それゆえ何ものも存在するとはいえない。

②仮に存在があるとしても、人間には認識(思考)できない。

③仮に存在が認識されたとしても、人間はそれを言葉にすることがでない。

この三つを竹田青嗣氏はゴルギアス・テーゼと名づける。

「存在」 ≠「 認識」 ≠「 言語」という構図こそは、ヨーロッパ哲学の歴史全体を貫いて、哲学の理念を揺るがし続けてきた「世界認識の不可能性」についての、反駁不可能な論証なのである。

ヨーロッパ哲学とは
①ローマ期のアカデメイア学派による懐疑派=相対主義

②コント以来の実証主義科学、現代の論理哲学者(ゴットロープ・フレーゲ、バートランド・ラッセル)

③20世紀後半の分析哲学とポストモダン思想による相対主義哲学(オーマン・クワイン、ポール・ファイヤーベント、ジャック・デリダ、トーマス・クーンなど)

④認知哲学、科学哲学、心の哲学、心脳論は実在論的一元論的一元論の実証主義的方法(ドナルド・デイヴィッドソン、 ヒラリー・パトナム、 デイヴィッド・チャーマーズ、 トマス・ネーゲル、 ダニエル・デネット、 ポール・チャーチル・チャーチランドなど)

⑤「新しい実在論」のながれ、ポストモダン的相対主義思想への批判を含み、実在論陣営(クァンタン・メイヤスー、 マルクス・ガブリエル、 グレアム・ハーマン など)。

ゴルギアスが言うとおり、「 存在」、「 認識」、「 言語」 の 厳密 な 一致 は あり え ない。 しかし、 にも かかわら ず 普遍 洞察 の 方法 が 有効 で あり、 普遍 認識 の あり うる ことを証明、論証できるとすればどうだろうか

そのためにはヨーロッパ哲学における「存在論」の根本的な転回が必要となる。

ニーチェが、まず伝統的「存在論」の転回を果たした。
ハイデガーが言う。これまでの哲学は世界の「存在」が何であるかと問い続けてきたが、「そもそも存在するとは一体どういうことか」とは決して問わなかった。自分はこの問いを、哲学の最も根本の問いとして立てる。そしてそれを、「存在の意味」の問いあるいは「存在の真理」の問いと名づけた。さらに彼は言う。この問いには現象学の方法が必要である。その意味は「オトギバナシを語ってはならないということだ。

つまりこれまでの存在論はすべて「形而上学」となっていたが、そうではない仕方で「存在」なるものの本質に迫らねばならない、と。

ところが、結果として言えば、ハイデガーはあるところまでニーチェ的、現象学的に「存在の本質」を探究したが、途中から自ら「存在の形而上学」に陥ってしまった。

ニーチェの存在論の根本的転回を示すキーワードは、「遠近法」である。ポストモダン思想は、ニーチェの「遠近法」の概念を完全に相対主義的に解釈して、社会批判思想の大きな武器となした。(とくにミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ)。

遠近法の考えは、絶対的な認識や価値の観点などどこにも存在しない(それぞれの観点=遠近法があるだけ)という相対主義の主張を強力に補強する面もあるからだ。

ニーチェの新しい存在論の要諦は
世界はそれ自体として「存在」していない。世界は、「力」によって分節されつつたえず「生成」する。

ここで、「あらゆる力の中心」とは、認識上の観点ということではなく、生き物の力、その「欲望ー身体」という中心を意味する。生き物の「欲望ー身体」という中心が、その生の力において世界を「解釈」する、つまり対象の「有用-有害」「よいーわるい」を「価値評価」的に区別し、そのことで自己の「世界」を分節、形成するのである。

事物自体ではなく「事物を定立するもの」、つまり生きものの「欲望ー身体」という知から、そしてこれによって定立された世界(生の世界)、これだけが真に存在するものでないだろうか。

あるいは、いわゆる「存在の世界」ではなく事物が定立されたところの「生成の世界」、これだけがリアルなものではないだろうか。

そしてわれわれが「客観世界」と呼ぶものは、この「生成の世界」の投影として想定されたもの、つまりその相関者にすぎないのではないか。

ニーチェの「遠近法」の概念は、相対主義的観点ではなく、なにより伝統的な「存在」概念の根本的顛倒としての完全に新しい「存在論」なのである。

フッサールの「現象学的還元」概念の要諦
一切の認識を「確信」の成立とみなすこと。一切の認識、日常的な認知から学的な認識までのすべてを、主観における確信の成立(構成)とみなすこと、この視線の変更によって認識問題の難問は解明されるのである。

人文領域における普遍認識の可能性は、自然科学が達成した客観認識の方法からは決して導くことができないこと、人間の価値ー意味の関係世界を捉えるには、完全に新しい方法概念の創設が必要である。

第三章 欲望論的哲学の開始


人間の価値ー意味領域の把握の本質的モデルは、ニーチェの力相関性の構図による認識論的ー存在論的転回に見出される。これを「欲望相関性」の概念へと転移し、「価値の哲学」の権利的始発点とした。その根本テーゼは、「世界は欲望の相関者としてのみ分節される」となる。

欲望 相関 性 の 概念 は、「 内的 体験」、「 エロス 的 力 動」、「 世界 分節」の三契機によって構成される。

内的体験:絶対の無明世界に一瞬、最も仄かな「明るみ」が閃くように、有機世界の暗 瞑のうちに最下限の実存の明るみが閃く。これが生の、つまり「内的世界」の生成の端緒である。

エロス的力動(情動性):心的領域(内的実存)における生成変化の根本動因は、「エロス的力動」の概念で呼ぶ。

物理世界の生成変化は、ただ一義的な因果連関のデジタル表記としてのみ把握されうる。しかし心的世界の生成変化は、むしろ生成変化の連関における、留保、躊躇、判断、決断といった契機を本質的にもつ。そしてこの契機を端的に「自由」の契機と呼ぶことができる。

心的変化の本質的にもつ「自由」の契機は、物質世界の生成変化に把握における因果連関的記述とは根本的に相容れない。二つの領域の認識は原理的に相互に還元不可能である。

世界分節:自然世界(事実領域)における客観認識を可能にする方法原理は「自然の数学化」である。これに対して、「関係世界」(本質領域)における普通認識の唯一の方法原理は、欲望相関性の概念と、価値領域についての「本質洞察」の方法である。

この新しい方法によって、はじめて、「人間的世界」における共通確信の成立の本質構造を把握する可能性が現れる。

人文領域の「本質学」の方法をより根本的に基礎づけるために、現象学の「本質観取」の概念を、欲望論的に、「本質洞察」の概念へと転移する。

その理由は、人文領域の普遍認識においては、なにより価値関係の構造の把握が重要だからである。

本質観取の方法とは
「世界確信」の構成の構造を経験意識の内省によって把握する方法のことである。たとえば、宗教観や価値観の領域では世界確信は大きく成育環境に由来している。そもそも「正しい」世界観や宗教観は成立しえない。

私 に 一つ の エロス 的 情動‐衝迫( = 欲望) が 到来するごとに、私の「内的世界」に新しい世界分節が生じる。それはまず、ある対象を私の欲望の対象として私に告げ知らせる。つぎに、この対象と私の欲望の諸関係が、多様な意味 の 系列 として 分節 さ れる( リンゴ を 食べ たい が、 他人 の もの かも 知れ ない、 しかし 食べ て もさ ほど 問題 はなさ そう だ 等々・・・・・)。

欲望論的本質洞察の方法による「意味」と「価値」の定義

「意味」とは
根源的には、生き物に生じる対象の発見、欲望(情動と衝迫)の生成、企投と行為といった心的セリーのうちに現れる。「当為(何が為されるべきか)」の連関についての了解可能性にほかならない。
 
「価値」とは
価値と意味の生成は本質的に一つの事態であるが、価値の生成のないところに意味の生成はない。つまり、本質関係としては価値の生成が意味の生成に先行する。

「価値」は、実存世界の本質的関係として、対象への欲望の強度の相関者であり、「意味」はこの強度が支える「当為」の連関の了解性、として定義される。

第四章 世界認識の一般構成

現象学では、われわれが形成する一切の認識は、いくつかの種類の「世界確信」に還元される。この還元の基礎となる地平が、われわれの現にある体験意識としての「純粋意識」である。

どんな認識も、純粋意識においてなんらかの「確信」として構成され、さらにそこから間主観的化されているから、一切の対象の確信構成の根本構造を把握すれば、そこから一切の「世界認識(世界確信)」の一般理論を構成することができる。

竹田青嗣は、フッサールの現象学の「純粋意識」と「本質観取」を、竹田の「欲望論」における「現前意識」と「本質洞察」の概念へと位相変様した。つまり、一切の確信構成としての地平を「現前意識」とおき、ここでの根本的な所与の契機として、個別直観と意味直観に加えて情動所与を置くことで、「世界確信の一般構成」の構図は、価値ー意味を含む「世界認識の一般理論」の基礎構図となる、と述べる。

第五章 幻想的身体論

「私」の同一性という問題は、これを「本体」としての私の確証ではなく、経験の地平(現前意識)で生じる「自己確信」の構成の問題として把握するかぎり、どんな不可能性やパラドックスも現れず、誰にとっても同一の条件として確証される。

「私」の同一性は、実存する私にとっては、ただ、現前意識における私の経験についての自己確証の反復可能性という条件に依存する。この条件を失えば、精神的な障碍においてそうであるように、われわれの「自己」は失調し分裂する。

欲望論的には、動物の世界が「環境世界」であるのに対して、人間の世界は他者との関係幻想が織りなす「関係世界」である。動物の身体は生理的な身体だが、人間はその身体を「関係的身体」として、あるいは「幻想的身体」として形成する。

ヴィクトールという野生児の例

1797年頃、南フランス、ラコーヌの森で、養育者をもたず孤独な生育期を過ごしたと思える野生児、ヴィクトールが発見され保護された。ヴィクトールを保護し養育した医師ジャン・イタールの記録によると、

ヴィクトールが欠いているのは、単に言語とそれがもたらすはずの文化的ルールだけではない。ふつうの人間が身体的感受性、視覚、聴覚、触覚における感覚と識別の体制それ自体が欠けている。

イタールはヴィクトールに入浴の習慣を与えると、少年ははじめとまどっているがやがて風呂を好むようになり、それとともに変化が生じる。

それまでは衣服を身につけるのを嫌っていたが、あるころから寒さを感じて自分で衣服を身につけるようになり、長い間、裸の状態で寒い野外を平気で生きていたはずのヴィクトールは、やがて風邪にもかかるようになる。

ヴィクトールの事例は、つぎのような仮説をわれわれに示唆する。人間はふつう、生まれるや否や養育者との関係世界に投げ入れられる(一般的には、母ー関係となる)。この母ー子関係という成育の環境を欠くなら、人間は、通常の感覚性ー感受性を育てることができないだけでなく、さらに、誰もがもつ人間的な価値と感受性の秩序、つまり「よいーわるい」「きれいーきたない」という「審級価値」を形成することができない。

【私見:バランスを欠いた母親に育てられた、子供の将来はどうなるのか、と考える。SNSなどで、罵倒や嘲笑が蔓延っている現状が、その帰結なのでは、と思ってしまう。】

人間の身体は、単なる感覚器官なのではなく世界感受の綜合的な能力、すなわち対象と世界を、意味、価値、エロス性的総体として感受する一つの「能う」にほかならない。

「身体」の本質契機に属するのは、下記となる

エロス的感受
「快ー不快」「エロス的予期ー不安」というエロス的世界感受が身体のはじめの本質契機であり。それはまた世界の始原の分節の原理でもある。

このエロス的感受の審級は、関係世界の高度化に応じて上位の審級を形成し階層化してゆく。すなわち、「快ー不快」「エロス的予期ー不安」の審級は、人間的関係世界の中で、「よいーわるい」「きれいーきたない」の審級へと展開する。

存在可能としての「ありうる」(欲望)
動物では身体は実存の絶対的主体である。人間にとって私の身体は、欲望ー衝迫として私を規定すると同時に私の「自由」にとっての対象性となる。つまり判断され評価され選択される「存在可能」となる。

これらと等根源的なものとしての「能う」
人間の幻想的身体は、価値ー意味の感受の力能としての、また「語り」の力能としての「能う」となるが、この力能は、ただ成育の過程における言語ゲームを通して、その発生のプロセスをたどる。

第六章 無意識と深層文法

現代 医学 は、 優れ た 実証的 技術 によって「 病」 の 原因 を 身体‐事物 的 因果 連関 の 不調 として 突き止め、 事物 的 な 連関 の 操作 においてこれ を 治療 する。 しかし 心的 な 障碍 において は この 方法 は 適応 不可能 で ある。 われわれ は あの「 不可視 域」 の 前後、 その インプットと アウトプット について は どこ までも 因果 的 連関 を 把握 できる が、「 不可視 域」 の 内部 は 原理 的 に ただ 推論 する こと しか でき ない。 そしてこの推論は必然的に多様なものとなる。

無意識の本質洞察
現象学‐欲望 論 は、 一切 の 対象 認識 を「 現前 意識」 へと 還元 し て その 構成 条件 を 吟味 する こと で、 さまざま な「 認識‐確信」 が どのような妥当性をもつかを検証する。

私が、私自身の性癖、性格、独自の嗜好、関係態度などに関して、私が自覚していなかったことを他者から指摘、忠言、解釈などによって気づかされる、という体験。この 自己 の 否定的 な あり方 について の 指摘 や 解釈 を、 それ まで 無自覚 だっ た もの として 自ら 認知 し 承認 する こと。 こういう 場合に、 私 は、 その他 者 とともに、 自分 の「 無意識」 の 存在 を 認め て いる。 また、 こうした 了解 を 私 と 多く の 他者 が 共有 する とき、「 無意識」の存在は間主観的な確信として成立する。

「無意識」とは、本質的 に、 自分 の 存在 について の 自己 理解 と 他者 の 理解 との「 ズレ」 の 自覚 として 現われる 観念 で あり( 自分自身 による 気づき も ある)、この「 ズレ」 を 克服 しよ う と する 自己 配慮 を 含ん で いる。 そうした 事象‐経験 一般 を われわれ は いわば「 本体 化」 し て、「 無意識」と呼んでいるのである。

私が私の「無意識」の 世界 を 認め 受け入れる こと は、 自覚 でき なかっ た 自己 について の「 他 の 理解」 を 承認 し 受け入れる こと で あり、 本質的 に、 自己 了解 の刷新 で ある だけで なく、 一つ の 関係 的 な 自己 企 投 で ある。   それ ゆえ、 他人 が 自分 に 何 を 言お う と まったく 関知 し ない 人間 にとっては、「 無意識」 は 存在 し ない。「 君 には 無意識 が ある」 という 言葉 が 意味 を もつ のは、 われわれ が 自ら を 他者 関係 の うち に ある存在として受け入れ、この関係性自体に関わろうとするかぎりにおいてである。

「無意識」が存在するという信憑は、われわれの「幻想的身体性」( 情動、 欲望、 関係 態度、 美意識、 倫理 観 など) が、 私 の 現在 的 な 自己 理解 に 本質的 に 先行 し、 かつ、 それ を 超え 出る 仕方 で 存在 し ている という 事実 について の 自覚 と 確信 で あり、 また そうした 自分 の 幻想的 身体 性 に 働きかけよ う と する 関係 的 な 存在 配慮 を 意味 する。

つまり、「 無意識」 とは、 なんら 実体 として の 心 の 一部分 あるいは 領域 なのでは なく、 本質的 に、 私 の 対 他 的 な 関係 世界 における「 現実性」の一領域にほかならない。

第七章 価値審級の発生

人間の生が動物のそれと異なる最大の契機は、母ー子(養育者ー子)関係を一定の生育期としてもつこと、またそれが言語ゲームとして営まれるという点にある。このプロセスによって人間の身体は動物的身体から離脱し、関係的身体、つまり幻想的身体となる。

幻想的身体では、その価値審級は「快ー不快」「予期ー不安」から「よいーわるい」「きれいーきたない」へ、さらに間主観的な「善悪」「美醜」へと転移する。人間の知覚(あるいは自我)が価値的な一瞥的知覚の本質を獲得するのはそのためである。

象徴的にいえば、人間の身体(幻想的身体)は、言語ゲームのうちで形成された関係的ルールとしての「よいーわるい」を、内面化し、感受し、身体化するのである。


第八章 「善と悪」

はじめの「うそ」は、母の叱責 と「 わるい 子」 という 否定 の 刻印 を 免れよ う と する 防衛 本能的 な 反射 に すぎ ず、 まだ 自己欺瞞 でも 自覚 的 な 他者 欺瞞 でも ない。 だが、「うそ」 によって うまく 苦境 を 乗り越える 経験 が 繰り返さ れる と、 子 にとって それ は、「 わるい 子」 という 刻印 を 回避 し て 内的 自由を貫くたもの一つの新しい手段、一つの「能う」となる。

つねに要求と規範を押しつけ、たえず子の不従順を叱責する母親は、子に、本能的な「うそ」によって苦境を逃れる道を覚えさせる。

「 うそ」 や「 いいわけ」 や「 正当 化」 が とがめ られ ない まま 首尾 よく 成し遂げ られる 経験 が 続く と、 子 は それ を、 誰 にも 姿 を 見 られず に 自己中心性 を 貫く ギュゲス の 能力 の 獲得 と みなし (註)、 それ を、 自己 の 内的「 優越」 として 自己 承認 する。

(註)ギュゲスは、プラトン『国家論』に登場する羊飼いで、自分も姿を消すことができる不思議な指輪によって、誰からも批判されずに悪をなす自由の力を得る人物。人間の「自己中心性」の自由を象徴する人物として描かれている。

第九章 「きれいーきたない」審級 省略

省略します。

第十章 美醜 省略

省略します。

第十一章 芸術美 省略

省略します。

第十二章 芸術の本質学 省略

省略します。

終章 芸術の普遍性について

ある作品に強く動かさ れる とき、 われわれ は、 現実 の 矛盾 の 意識 を 超え 出 て、 表現 によって 人間 の 本来 に 届こ う と する 作家 の 内的 な 自由 の 力 を 直観 する。

そして、その 表現 性 の うち に、 人間 の 自由 の 卓越 し た あり方 を 憧憬 し つつ、 享受 する ので ある。 まさしく この 理由 で、 芸術 の うちに「道徳」の理念が投げ込まれるとき芸術の本質は棄損される。

文化の営みは、人間の生のエロスの表現をその本質とする。言い かえれ ば、 人間 にとって、 暴力 縮減 の ため の 秩序 形成、 生命 を 維持 する 労働 の 活動 とともに、 いわば 歌い、踊り、物語ること、人間生活におけるエロスの表現の営みが不可欠なのである。

芸術は、人間生活の中で絶対的な存在の必然性をもっていないし、また 存在 し 続ける べき という 根拠 も もた ない。 それ は 人間 生活 において、 自由 と ロマン の 空気 が 流れ込む 場所で 芽 を 吹き、 成育 する。 すべて の 人間 が 芸術 の ゲーム に 興味 を もつ わけ では ない し、 その こと は なんら 不都合 な 事態 では ない。

しかし、人間 社会 が、 長い 普遍 戦争 と 絶対 支配 の 歴史 を とおし て、 きわめて 限定 さ れ た 条件 にも かかわら ず、 芸術 や 文化 の 領域、 すなわち「公共 的 領域」 を 維持 し 存続 さ せ 続け て き た こと は、 人間 の 生 の 本質 にとって 象徴的 な 意味 を もっ て いる。

われわれが芸術や文化や 思想 の 自由 な「 活動」 の テーブル( = 公共 の テーブル) を もつ のは、 人間 社会 が 暴力 と 闘争 の 原理 に たえず 対抗 す べき 理由 を もつ こと、それ なし には 人間的 価値 は 存続 し え ず、 人間 の 倫理 も 精神 の 自由 も 存在 し え ない こと を、 われわれ が 暗黙 の うち に 知っ て いる からである。

人間 社会 が、 根本的 に「 善」 や「 正義」 の 価値 を 必要 と する のは、 暴力 契機 の 縮減 への たえ ざる 努力 が人間 社会 が、 根本的 に「 善」 や「 正義」 の 価値 を 必要 と する のは、 暴力 契機 の 縮減 への たえ ざる 努力 が必要だかである。

同じように、こうした社会規範の維持の必要のうちで、われわれの生の本質が疲弊し、陰鬱となり、枯渇せぬように美と芸術の営みは存在する。


本書を理解する上で、下記の苫野一徳氏による竹田青嗣著『欲望論』の解説が、かなり役に立ちました。

【解説】竹田青嗣『欲望論』|ittokutomano|note


さらに、「井庭 崇(いば たかし)氏、 慶應義塾大学総合政策学部 教授。博士(政策・メディア)」との、YouTube での対談は、興味深かった。パターンランゲージを実施するにあたって、本質観取の手法を使って、実際に、介護施設などでも、応用されている。哲学が、空理空論ではなく、社会の現場でも役に立っている、ということである。

そのことに、竹田青嗣氏としても、歓びを感じている様子を、ありありと見せていた。哲学の価値として、社会に役に立たねばならないということではないだろうが、竹田青嗣氏としては、これまで、あまりにも役に立てていなかったので、哲学の敗北であるという信念を持っていることに、信頼性を感じている。医療関係者も、現象学を勉強しているということである。

ところが、同じ現象学でも、流派が違うと、解釈が異なっていることに、問題があるということだ。

山口氏は【竹田を真正な哲学者と考えている。そしてそのうえで彼の考えの不十分な点にかんして彼の新刊を批判するのである。なぜこんなことを言うかと言えば、周知のとおり、専門家のうちには権威からの論証によって「竹田は哲学者ではない」と述べる者もいるからだ。】と書いている。

つまり、他の部門との交流を図っているから、専門家のうちには権威からの論証によって「竹田は哲学者ではない」ということなのだろうか?苫野一徳氏は、すっかり、竹田青嗣氏に、のめり込んでいるようなので、少なくとも「哲学者ではない」と、切って捨てるような専門家は、どうなのかと、思ってしまう。

現象学については、放送大学の講義で学んだぐらいなので、他の専門家については、態度保留するしかない。ただ、竹田青嗣氏の著作を、読んでいると、腑に落ちるところが多い。哲学入門書をかなり、書いていたということもあるのだろうが、読者に理解してもらいたいという姿勢があるので、それが伝わってくる。易しいから、良いということでもないのは、他の哲学書を読んでいると、分からないではないが、単に、こねくり回して、無理やり、難解な文にしているのでは、と疑ってしまうことも多々ある。

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