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竹田青嗣氏による欲望論的な本質洞察の方法論とゴータマ・ブッダの認識論について

ウィトゲンシュタインは『哲学的探求』の中で、世界の存在について、次のように語っている。

           竹田青嗣 著『新・哲学入門』


存在論的にも、「内的実存」の世界こそが客観世界に先行するという構図において、ニーチェ、フッサール、ウィトゲンシュタインの世界説明は本質的な一致している、と竹田は主張している。

一方、ゴータマ・ブッダの世界について、「私があるのではなく、眼、鼻、耳、舌、身、意などの感覚器官が先にある」と説明しているので、上記三人の西洋哲学者と一致していると考えられる。

感覚器官で対象を知覚したとき、人間は、どんな反応をするのかを、下記に示します。

                       同上

人間は、対象を知覚すれば、欲望が発生し、その欲望の強さに応じて、さまざまな行動にでるということである。

ゴータマ・ブッダも、眼、鼻、耳、舌、身、意の感覚器官で認識される色、声、香、味、触、法の対象に、欲望し、執着して喜悦することが、苦の原因となる説いている。だから、それを消滅しなければ、人間は一生、苦を抱えたままになるというわけである。

さらに、ゴータマ・ブッダは、この苦を消滅するための処方箋を提示するのだが、一般的に、哲学者は、ブッダのように処方箋を提示することは、稀なのではと思っている。寡聞にして、ショーペンハウアーぐらいしか知らない。処方箋を示すのは、宗教の仕事だと、分節されているのだろうか。

ただ、宗教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教などと、さまざまな宗教が存在しているように、それぞれの宗教ごとに教義があり、それらの教義は「物語」でできているので、普遍的な妥当性の証明するのは不可能である。

それぞれの宗教がもっている共同的な世界観は、普遍的な共有の可能性をもてないことで、社会的な対立の源泉となり、現実に、これまで、大きな争いが現在に至るまで、途絶えることがなく続いている。

こうした、実情からみても、宗教に、処方箋の提示を委ねるというのは、危険だといえる。すると、普遍性を追求する、哲学が処方箋を提示するのが妥当といえる。元々、政治学、経済学、法学、社会学などの人文科学は、いわずもがな、数学、物理学、天文学、化学、生物学などの自然科学も、哲学から派生しているわけだから、これらを統合して、処方箋を提示することは、不可能とはいえないのでは、と思います。

ただ、不可能だとは言えないにしても、各分野の専門化が微細になっているので、統合することは、相当に困難であることは間違いがない。



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