勉強が楽しいという人よ、それは勉強じゃなくて娯楽だ。つまらないからこそ勉強である
私は勉強が嫌いだ。なぜか、それはつまらないからだ。
休日に勉強をすることができない。やりだすと全身が一気に拒否反応をしめす。手がしびれ、眠気がおそう。机の上で何もしない時間だけがすぎる。そして思う。「私は一日何をやっていたのだ…」と。
しかしだ、私は休日に仕事をすることはできる。
全然できる。余裕でできる。むしろやってる。
なぜ?
勉強ができないのに、なぜ仕事ができるの?
え、勉強って楽しいに、なんでできないの?
こう思う人はいらっしゃるのではないだろうか。
私はここで強く言いたい。
勉強は基本的につまらないものだから、よほどの理由がないと勉強できない。
じゃあなぜ仕事はできるのか。仕事はやらないといけないからだ。
やらないつけは自分に返ってくる。休日にやっておかないと平日に辛くなることが見えているからだ。
たまに「勉強が楽しい」とおっしゃる方がいるが、ここも強く言いたい。
勉強は楽しくないものであり、勉強はつまらないものだ。
もし「勉強が楽しい」というのであれば、それは勉強でなく娯楽でないだろうか。
もう少し丁寧にいうと「学び要素がある娯楽」だ。
「学び要素がある娯楽」は勉強ではない
例えば漫画を読む行為。内容が面白い歴史漫画だとしよう。
そしたら漫画も読むことも「歴史の勉強だ」という人がいるかもしれない。
でもそれは違う。その人がやってることは「学びの要素がある娯楽」であって勉強ではないのだ。
じゃあ勉強とは何か。勉めて強いると書いて勉強だ。
つまり何か身につける必要があって、それを習得するために仕方なくやることだ。
やらなきゃいけないことがあって勉強をするのだ。何か興味があることが楽しいことが先にあってそれを自発的に学びに行くのは勉強ではないのだ。
わかりやすい例えを一つしよう。私は一時期プロ野球が大好きだった。
どのくらい好きかというと好きな球団の野球選手の名前は2軍含めて全部分かったし、打率も覚えていたし、出身高校も覚えていた。
かなりの量の情報をインプットしていたことになる。当時の私がこう言ったら皆さんどう思うだろうか?
「休日の日はプロ野球のことを勉強しています」
おいおい、それは娯楽だろ?とツッコむだろう。
でも隙間時間を使って、球場に通ったり、ネット情報をチェックするなりしてる。
この労力を勉強だと言い張る人もいるかもしれないが、多くの人は首をかしげるだろう。
それは興味が先行している学びだからだ。
では同じプロ野球でもこれはどうか。
とあるテレビ局のアナウンサーが野球番組の担当になった。そのアナウンサーは野球のルールを知っている程度でプロ野球の選手まで把握していない。近々選手にインタビューをする予定があるから、その選手のことを調べてインプットした。どうだろう、これなら勉強でないだろうか。
同じプロ野球の知識をインプットするにしても、娯楽としてどんどん知識が入ってくる人。仕事としてインタビューしなければならないため、知識をインプットしなければならない人。娯楽と勉強の違いはこれではっきりしたではないか。
勉強と学習の違い
ただここでもう少し区別しなければならないことがある。それは学習だ。
「学びの要素がある娯楽」と違って、学習は勉強寄りに見える。
ただ学習は何かに強いられていない状態で学んでいくことだ。
例えば、PCが苦手な人が操作方法を覚えたいからとPC教室に習いにいく。これは学習だ。
一方、PCが苦手な人が転職した会社で仕事でPCを使う必要があるのでPC教室に習いにいく。これは勉強だ。
車に乗ってドライブしたいから教習所に行く人、これは学習。乗りたくもないけど、仕事で車を使うから教習所に行く人、これは勉強。
学習と勉強の違いがここにある。
生涯学習センターという施設はあっても、いまのところ生涯勉強センターはない。
学習と勉強、どちらも学ぶという行為は同じでは、強いられているか、強いられていないのかの違いがある。人間は強いられたものは楽しいと感じないのだ。
勉強とは嫌な意味を含む。例えば何かミスってお金で損をしたとしよう。そのときに「高い勉強代だったね」という。「高い学習代だったね」とは言わない。勉強は強いられるという意味でネガティブにも使われるのだ。
勉強じゃないことを勉強ということにする自己正当化
ここまで勉強は楽しくないものだと書いてきたが、なぜこんなことを書いているのか。それは勉強を理由に自分のやっていることを正当化する人を減らしたいからだ。
例えば、将来的に仕事に身につけなければいけない技能があったとしても、土日に別のことをしてしまう人。
土日に美術館にいったとしよう。美術館で知識を教養を身につけました。人生が豊かになる勉強をしてきました。
違う。これは娯楽である。美術館に遊びにいったのだ。そこでたまたま学びの要素があっただけだ。
勉強じゃないのに勉強をしているからと自分を正当化して、本当にやらないといけない勉強を後回しにしているのではないだろうか。
これが美術館じゃなくてスマホゲームをやって1日過ごすとなんだか罪悪感がすごい。でも美術館でアートの勉強ならいいや。
こう考えて自分を正当化している人がいるなら、それはやめようと言いたいのだ。
少しずれるかもしれないが、私に言わせれば興味が入り口であれば、美術館もスマホゲームも同じ娯楽である。
スマホゲームだって、ずっとやってればスマホゲームのフォーマットにも詳しくなるだろうし、人間が中毒性になる要素を学ぶことができるだろう。
繰り返すが、勉強とは基本楽しくない行為なのだ。
入り口はつまらなかったけれど、頑張って勉強してたらノってきてだんだん楽しくなることもあると思う。それは別に構わない。勉強がんばったね、興味がでてきてよかったね、と言ってあげたい。
ただ最初の入り口はつまらないということを言いたい。実際多くの方は最初から最後までつまらないのではないかと思う。
いやいやいや、学校生活楽しかったよ。面白い先生の授業あったよ!
という人もいるだろう。面白い先生の授業もあっただろう、だがそれはミクロの話だ。
マクロでみてほしい。朝の8時半ぐらいから50分ぐらいの授業をたった10分の休憩で六限もやる。
制服を着せられ、狭い机に固定され、変な校則に文句を言いたくなることもあるだろう。授業の出席率が低ければ卒業できない。つまり学校自体が強いられているのだ。
勉強はつまらないので自分なりの勉強を見つけよう
長くなった。ここまで読んでくれたら勉強はつまらないものだということが伝わったのではないかと思う。
最初にも書いたが私は勉強は嫌いだ。やりたくない。しかし勉強しないといけないときもある。そのときはどうしてきたか。仕事にしてしまうのである。
具体的には難易度の高い仕事に取り組み、勉強しないと先に進まない状況を作るのだ。やり方が分かって理解できればそれでいい。どうしても分からなくて誰かにやってもらうこともあるだろう。そのときはしっかり答え合わせて理解する。これが私なりの勉強法だ。
「きっと将来役に立つから」程度の霞のようなモチベーションでは情けない話だが勉強できない。これやらないと死ぬぐらいの状況でないと勉強ができない面倒な体質なのだ。
まとめると最初から楽しい勉強なんてない。楽しいと思っていたらそれは娯楽ではないかと考えてみてほしい。
やらないといけないけどやってない学問や技術はないのか。それを後回しにして学び要素のある娯楽を勉強ということにしていないか、ということだ。
私が言いたかったのは以上である。何かご意見あればぜひ頂きたい。
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