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【連載小説】黒き夢みし vol.13

 少し前まで穏やかだった雰囲気はタヌキ部長の怒鳴り声によって変わった。学生時代も誰か一人によって雰囲気が変わってしまうことがあったが、社会人になってもそれは同じなのだと思った。
 やがて乱暴にドアを開ける音がして、タヌキ部長がオフィスに戻ってきたのだと知る。雑談をしてくれたシャドウもいつもの無表情に戻り、パソコンに向かって作業をしている。
 ギンガムが席を立ってオフィスを出た。おそらく気分を変えるために喫煙所に行ったに違いない。それを見た馬ゾンビも後に続いた。喫煙所でタヌキ部長について聞くのだろう。
 明彦はシャドウにから対応指示された課題の続きをやることにした。誰からも話しかけられることはなく三十分ほど時間が過ぎた頃、オフィスに少しずつ会話が戻り、穏やかさを少しずつ取り戻しはじめた。明彦もそろそろ休憩しようとバッグから財布と携帯電話を取り出すと、営業の銀縁メガネからに着信がきていたことに気づいた。休憩室に移動して銀縁メガネに折り返すとすぐにつながった。
「ああ、お疲れ様。今ちょっといいかな」
銀縁メガネは少し早口だった。
「はい、なんでしょう」
「来週で現場の仮配属が終わるから、そろそろどっちを採用するのかをちょっと確認しようと思って、部長に電話したんだよ。どっちも良い印象を持っているようで、それは良かったと思っているんですが……」
 何かをためらっているように聞こえた。
「採用されると六月から正式に配属されるんだけど、そこの業務内容は夜間運用監視らしいんだ」
「なんですかそれは?」
「夜勤でシフト出社になるんだ」
「え、そうなんですか」
 明彦は思わず声が大きくなった。業務内容が夜勤だとは聞いていない。
「時間は夕方の六時から翌日の朝六時まで。月に十五回ほど出社するらしい」
「十二時間も夜勤ですか?」
「申し訳ない。俺もそんなつもりはなかったから、部長にそう言ったんだけど、夜勤は通信屋の基本だと怒鳴られてね……」
「夜勤が嫌だと言ったらどうなるんですか」
「どうしても二人とも嫌なのであれば、会社判断で撤退するしかないね」
 明彦が返答に困り沈黙がうまれた。
「でもちょっと考えてみてほしい。土日もあるから、週明けにまた意見を聞きたい」
 銀縁メガネは馬ゾンビにも同じことを伝えておいてほしいと言って電話を切った。
 明彦は休憩室で銀縁メガネの言葉を反芻していた。
夜勤、十二時間勤務、シフト出社。
夜勤がどういうものかよく分かっていないが、朝早く起きる生活から解放されることが少しだけ魅力的に思えた。また十五日ほどのシフト出社なら平日も休みになるはずだ。ただし夜勤になると失われるものもあるだろう。ではそれが何かまだ想像できない。
 しばらく一人で考えたあと、馬ゾンビに伝えることにした。オフィスで話すわけにもいかないので馬ゾンビを電話で呼び出した。数分後に馬ゾンビがやってきたので、銀縁メガネから聞いた話を共有した。
「それは冗談じゃないな」
 馬ゾンビは不快感を露わにした。
「営業からは採用された場合、受けるかどうかを土日で考えてほしいと言われた」
「考えるまでもないよ。夜勤なんて絶対嫌だね」
 馬ゾンビの口調は荒く怒っている。夜勤の可否を即答できる馬ゾンビがすごいと思った。
「土日で考えるまでもないの?」
「ないね。教えてくれてありがとう。俺からも営業に電話してみる」
 そう言って馬ゾンビは銀縁メガネに電話をかけた。すぐにつながらないコールが続いているようだ。明彦は馬ゾンビを残してオフィスに戻った。

 エレベータの中でタヌキ部長の怒鳴り声はこのことだったのだと思った。自席に戻るとシャドウが話しかけた。
「なんかあった?」
「あ、いや。勤務形態が想定と違っていたようで」
「勤務形態? どういうこと」
「採用されたら夜勤だそうです」
シャドウは腕組みをして少し何かを考えていた。
「そういう大事なことを言わないやつなんだよ」
「誰ですか」
「あのジジイだよ」
 明彦は隣の部屋のタヌキ部長の席に視線を送った。タヌキ部長が隣にいると聞こえてしまう。
「あいつは今日は打ち合わせがあるから、もうオフィスには戻ってこない。大丈夫だ」
 明彦が胸をなでおろした。シャドウは不愉快な顔をしている。
「実は君らが帰ってから夜勤をやっている人が来てるんだが、その中の一人と金銭で揉めてたんだよ。丁度いいから君らと交代させるんだろうな」
「そうなんですか」
 夜勤の人がいることは聞いていたが、自分には関係ないと思っていた。
「俺も夜勤の交代があるつもりはなかったから、あのジジイが急に決めたんだろうな」
「あの人、また急に話を変えたんですか」
 ギンガムが話に加わってきた。気の毒そうな顔で明彦を見ていた。
 ドアが開いて馬ゾンビが戻ってきた。顔つきが険しい。明彦は今三人で夜勤の話をしていることを馬ゾンビに伝えた。
「ちょっと夜勤は聞いてなかったので営業と電話をしてました」
「あの部長は思いつきで色々決めちゃうんですよ。すいませんね」
 ギンガムが顔をしかめながら言った。
「で、どうする?」
 シャドウが腕組みをしたまま、明彦達に言った。
「何がですか?」
「夜勤の話が急に出たならウチに非がある。あのジジイは怒るだろうが、君らは断ることもできるだろう。派遣会社はたくさんあるから君らが断るなら他を当たるだけだ」
「私はさっき営業と話して夜勤はやる気がないと言いました」
 馬ゾンビはきっぱりと言った。
「受けない意思が固まっているなら、この職場は今日で最後だな。来週いても仕方ない」
「営業にもその話はしました。現場の人と相談してからまた営業に折り返し電話する予定です」
 馬ゾンビの意思は固まっているようだ。
「あいにく部長は今いないが、御社の営業から部長に電話するだろう。連絡するなら早い方がいいから、意思が固まっているなら営業に伝えた方がいいね」
「分かりました。伝えてきます」
 馬ゾンビは携帯電話を持ってオフィスを出た。展開の早さに明彦はついていけない。
シャドウが明彦に視線に送った。お前はどうすると聞いているのだ。
「土日を使って考えたいですね」
「急に聞いて戸惑うだろうけど、しばらく夜勤もやりようによってはプラスになるだろう。だけど嫌なことを無理にやることはない」
 シャドウはそう言って自席に戻った。ギンガムは小さな声で「がんばれ〜」と言い残して自席に戻っていく。

 やがて定時を迎えた。馬ゾンビは夜勤を受ける気がない旨を営業の銀縁メガネに伝えていた。今頃は銀縁メガネからタヌキ部長に向けて断りの電話が入っていることだろう。馬ゾンビはオフィスの社員にお別れの挨拶をしている。
 話を聞いた社員たちは気の毒そうに馬ゾンビや明彦を労った。タヌキ部長によるトラブルには慣れているようだった。
 明彦と馬ゾンビはオフィスを出て、入館カードを受付に返却した。このカードは常時入館カードではないので、退館手続きは必要なかった。辞めようと思ったら、すぐに辞めることができるのだ。駅に向かう途中に馬ゾンビが言った。
「俺は起業したいから、夜勤なってやってるわけにはいかないんだ。日中なら仕事終わりに勉強会にも参加できる。夜勤だと体調も崩れるだろうし、そうはいかない」
「そこまで考えているのか」
「でも先輩に聞いた話だとI T業界なら夜勤も普通にあるみたいだ。起業したいみたいな目標に影響ないなら夜勤やってもいいんじゃないかな」
「ちょっと考えるよ」
 駅で馬ゾンビと別れた。B V Tに入社してから、ほぼ毎日顔を合わせていた馬ゾンビの顔を見るのもこれで最後かもしれない。少しだけ目に焼きつけようとして、別方面のホームに消えていく後ろ姿を見ていた。


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