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家康、秀吉にどう立ち向かう?

こんにちは!hm384352です♪
今回も大河ドラマどうする家康にちなんで徳川家康が関わった戦いをお話していきます。

今回の戦いの舞台は現在の愛知県小牧・長久手です。

小牧と言えば、織田信長が山城で初めて築いたものですが、今回お話する戦いの織田・徳川軍の陣城としてしか市民に認知されていなかった小牧山城があります。

今日はこの戦いに至る背景をお話していきます。登場人物は織田信長の後天下を握る2人、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)、徳川家康です。そして信長の次男、織田信雄(のぶかつ)です。

それでは早速見ていきましょう!

天下統一が目前であった織田信長が天正10年(1582年)、本能寺の変において自刃してしまいます。
信長が討たれたことを中国地方の毛利と戦っていた羽柴秀吉は、毛利と和睦を結んで僅か数日で山崎へと戻ってきます。そして山崎の地で本能寺の変を起こした明智光秀を破ります。
また信長の後継者を決める清須会議ではまだ幼かった吉法師を後継者とし、この決定を不服としていた柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、秀吉は信長の実質的な後継者として君臨していました。

こうした秀吉の横柄な態度が気に入らなかった人物がもう1人いました。
それが信長の次男、織田信雄です。信雄は秀吉の態度が気に入らず、元々信長と同盟関係にあった家康を頼るようになっていました。

信雄に頼られた家康。家康も秀吉のやり方は気に入りませんでした。しかし、秀吉を攻撃するだけの「大義」が無かった為、秀吉に対して兵を挙げることが出来ませんでした。

しかし、信雄が秀吉を気に入っていない、自分に助けを求めてきた。この状況から秀吉に対して兵を挙げる理由が出来た為、家康は躊躇なく兵をあげます。

こうして天正12年(1584年)3月から11月にかけて現在の愛知県小牧・長久手を中心に秀吉軍と信雄・家康連合軍との間で戦いが起こりました。
これを小牧・長久手の戦いと言います。

以上が戦いの背景です。
力を持った秀吉軍に信雄・家康連合軍はどう戦っていくのでしょうか?

次回の記事でこの戦いの詳細に迫っていきたいと思います!!
それではまた次回!!

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