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秀吉の甥、秀次が造成した城下町✨

こんにちは♪hm384352です✨
今回は前の記事で紹介した八幡山城の城下町についてです!

前の記事でもお話しましたが、八幡山城は秀吉の甥であった秀次によって建てられました。
それと同時に城下町も造成しました。

八幡山城は築城からわずか10年で廃城となりましたが、城下町は在郷町として発展しまし、現在ではお城より城下町が在りし日の風景を色濃く遺していると言えます。

それではどのような城下町でしょうか?
一緒に見ていきましょう!!八幡山城の歴史等を知りたい方は一個前の記事から読んでみてくださいね!

八幡山城の麓には元々13の集落がありました。そこに織田信長が最期に築城した安土の城下町を移転させ町づくりをしたとされています。

町並みは横筋5筋、縦筋12筋の碁盤目状に町割りされています。また城の防御と同時に運河として重要視され現在は映画や時代劇のロケ地としても使われているので八幡堀です。
この八幡堀の山側、つまり城主から見たら内側に武家屋敷がつくられ、町人らとの住み分けがされていました。

秀次は「殺生関白」とのイメージがつけられ、さらには自らは秀吉に謀反の疑いをかけられ切腹させられていますが、この城下町に住んでいた商人たちには秀次に殺生関白というイメージはなく善政を敷いた良い武将なのです。それは信長が安土に敷いた楽市楽座を導入、さらには八幡堀に商船を立ち寄らせ町を反映させたからです。

今でも在郷町として発展していることからも秀次が在城期間は短かったもののどれだけこの町を大切にしてきたか。。。

一方発掘調査ですが、現在も生活圏であるため極最小限の発掘調査しか行われておりません。しかし、城下町の一部は重要伝統的建造物群保存地区となっており、秀次が造った城下町をそのまま残す貴重な城下町となっています。

是非秀次が思いを込めて造った城下町を訪れてみてはいかがでしょうか、、?


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