見出し画像

知らんおっさんの弾き語りなんて誰が見るんだ

私は、51歳にして、人生初の弾き語りライブをやろうとしているわけだが、自分だったら『何者かわからない50過ぎのおっさんの弾き語り』なんて見に行かないと思う。

世間から一定の評価を得ている人、よっぽど歌が上手い人、めちゃくちゃギターが上手いと評判の人の弾き語りなら「まぁ、見るか」と少しは思うかもしれないけれど、そうじゃなければ気ノリするものではない。知り合いが「オリジナル曲で弾き語りをやる」というのであれば、「どんな感じだろう」と、割と前のめりに見に行くと思うけれど、他のミュージシャンのコピーだというのであれば「カラオケ屋さんで歌ったほうがいいのでは?」と思ってしまう。

チケット代を払ってくれた人に、代金に見合う満足を届けるのは簡単ではない。でも、カラオケで歌う分には、そんな責任が生じることはない。楽しいだけで済む。オリジナル曲を歌うでもなく、流行の歌を歌いたいだけならなおさらだ。

でも音楽活動を趣味にしていると、上達したら誰かに見てほしくなるのは当然だと思う。家族や友達、同じような趣味の仲間がいる場で、余興として演奏するのは素敵だ。『同じような仲間』という意味では、オープンマイク系のイベントも悪くないのかもしれない。でも、いずれにしても続けて歌うならせいぜい1、2曲がいいところではないだろうか。聞き手側からすると、長々と何曲も聞かされるのは結構しんどいはず。

そんな風に思っているにも関わらず、弾き語りライブをやる。大丈夫か?


お笑いの世界には「出オチ」という言葉がある。インパクト抜群の衣装やメイクでステージ上に現れた瞬間に爆笑が起こり、「出るだけでオチになる」から『出オチ』。笑いのピークが頭でっかちで、その後は尻すぼみになることからネガティブな意味で用いられることもあるワードだ。

「え、弾き語りできるんですか? 聞かせてください」という状況で、「それじゃ、弾かせてもらうね」と演奏をスタートするも、結果的に出オチになることは多いと思う。イントロをジャララーンと奏で、Aメロを歌い出したあたりでは「わー、本当にギター弾けるんだ。すごいねー。こんな歌声なんだね」と思ってもらえるだろう。でも曲が2番、サビへと進むうちに、聞いてくれている人の興味は徐々に薄れていく。軽い気持ちで「聞いてみたい」と言い出した人は、別にフルコーラスなんて求めてない

もしも「聞いかせて」と声をかけられたら、演奏を始める前に「じゃあワンコーラスだけね」と前置きして、良きところでさっと切り上げるのがベターだ。「もっと聞きたい」「他の曲は?」と声をかけてもらえるまで、こちらから畳みかけないほうがいい気がする。だって、出オチは済んでいるのだから。

結構式の余興を思い返してほしい。盛り上がるのは、歌い出す前のあいさつと、せいぜい最初のサビまで。間奏や2度目のサビの頃には、お付き合いと惰性で続く会場の手拍子が虚しい(……気がするのは私だけ?)。間奏で衣装の早着替えをしたり、手品を披露したり、曲中に新郎新婦の名前を入れて替え歌したり、そんな創意工夫があってはじめて一曲丸々聞き通せる。何者でもない誰かの演奏を、最初から最後まで聞いてもらうのは本当に大変なことだ。

「ライブ」と称して人前に立つからには、そんな大変なことを、何曲も、数10分ぶっ通しでやらなければならない。やる方もキツいし、中途半端なパフォーマンスだったら見る方はもっとキツイ。チケット代以上の満足感を届けられなかったら、2度と見に来てもらえない。演者側に少しでも照れがあったり、自信のなさが見えてしまったりしたら、見てられないものになってしまう。怯むのが1番ダメだ。


その点、ジャイアンは肝が据わっている。ドラえもんに出てくる、ガキ大将・ジャイアンこと剛田武さん。彼は空き地に子供たちを集めて、土管の上をステージがわりに「ボエー」と酷い歌声を聴かせまくり、自分だけ悦に浸る。

何者でもない50過ぎのおっさんの弾き語りライブは、そんなジャイアンリサイタルと紙一重になる危険性をはらんでいる。見に来てほしい相手に「今度弾き語りライブをやるんだけど」と声をかけるとき、「これってやろうとしていることはジャイアンと同じなのでは」と気が引ける。誘われた側は、何を聞かされるかわかったもんじゃないのだから。それゆえ「自分から誘ったら断りにくいだろうな」と思う相手には、本当に気を付けて声をかける。

一方で、ジャイアンのように自信満々で自分の歌を人に聞かせられる人を尊敬してしまう自分もいる。上手いも下手も気にせずに、ジャイアンぐらい堂々と歌わなければ伝わるものも伝わらない。たった1人、アコギ一本携えて、『何か』を感じてもらうべく責任感を持って大勢の前に立つときに、周りの目を気にしすぎると、きっと身動きできなくなる。良くも悪くも鈍感であることや、自分への絶対的な自信を持つことは、弾き語りに必要だと思う。いい年してジャイアンに思いを馳せ、そんなことを考えた。


少し前までは「出オチだし、チケット代分の満足感を届ける責任もあるし、ジャイアンになりかねないし」と、そんなことがどうにもこうにも気がかりで、「弾き語りをやろう」とは思えなかった。

それなのに、なぜ弾き語りをやろうと思えたのか。前にも書いたが、第一のきっかけは知久寿焼さんのライブに衝撃を受けたこと。それに前後して、唄三線奏者として活動する妻・まちゃのマンスリーライブや、サンバチームがカーニバルで題材として『チームのアイデンティティ』を扱ったことからも刺激を受けた。さらに、ASADO ASAKAWAで歌うことの楽しさに気づき、DOMAというライブができる場所が近くにある。それらが複合的に絡み合って「よし自分らしく、自然体でやってみよう」という気持ちになった。

しかしそれらはどれも『きっかけ』に過ぎず、本質的な『弾き語りをやる理由』とは言えない。刺激を受けた結果『自分の中のどんな感情が動き出したのか』と向き合ってから、ライブ本番を迎えるべきだろう。ということで、じっくりと考えてみた。


こんなことをあけすけに語るのは照れくさいような、みっともないような感覚もあるけど、結論から言うと、弾き語りをやることによって私は「音楽をやっていいよ」と認められたいのだと思う。同時に「弾き語りライブをやりきれば、音楽世界の末席にもうしばらく居続けられるのではないか」と思っている節がある。演奏が上手いとか、曲がいいとか、そんなことを思われたいわけではない。思想やメッセージを褒められたいわけでもない。ただただシンプルに、音楽人として誰かから肯定されたい。同時に「まだ俺はやれるんだ」と、音楽人としての自分を肯定したいのだ。

音楽活動していようがいまいが、音楽を好きでさえいれば、誰にとやかく言われることなく、音楽人であることを認められるべきだ。それはわかっている。価値観を誰かに強いるような野暮なことをするつもりはない。これはあくまでも自分本位の話である。

私が音楽に打ち込み始めた90年代初頭は「バンドにうつつを抜かすのは25歳まで」みたいな空気が確かにあった。それまでにプロデビューできなかったらまっとうな職につくのが当たり前で、いい年してバンドに夢中になっていると白い目で見られていた。そんな暗黙の年齢制限は、10年ほど経つうちになし崩し的に「30歳まで」「35歳くらいまで」と先延ばしになり、いまや「プロになろうがなるまいが好きに続ければいい」というのが、当たり前になっていると肌で感じる。

私がバンドでプロデビューするのをあきらめたのは00年代中頃である。当時は30台前半。長年打ち込んでいたバンドが活動休止になり、新バンドを作ろうと動き回るも思うようなメンバーに出会えず、もやもやした気分のまま音楽活動に区切りをつることになった。意地でも音楽を続けるという選択肢もあった。テクニックに自信があれば担当楽器だったベースでスタジオミュージシャンに、作曲能力がもっと高ければ作曲家に、という道も選べただろう。でも、演奏技術も作曲能力もほどほどだった私が音楽で身を立てるには、グループの一体感やコンセプトを武器にして「バンドでプロになる」という道しか進めそうもなく、新バンドが組めないことで気を病んでいった。また、新バンドで動き出すときのために用意していた曲の魅力を過信していたのが仇となり「納得できる曲をどれだけ書いても、メンバーを集めてライブができなかったらダメじゃないか!」という虚しさから、気持ちが完全に折れてしまった。

当時の私には敗北感があり、音楽の世界から退場を余儀なくされたような感覚があった。すべて自分の思い込みなんだけど、思い込んでしまったのだから仕方がない。しばらく音楽と距離を置いた時期があり、慕ってくれるかつての音楽仲間から声がかかって「もう一度何かやってみようかな」と思えるまで7~8年かかった(あのとき声をかけてくれて本当にありがとう)。

それからは声をかけてくれたメンバーと宅録でアルバムを作ったり、20代の頃のバンド名義で当時のメンバーとミニアルバムを作ったり、また、いろいろ縁があってサンバチームの打楽器隊に入って夢中で活動もしてきたので、音楽人としては復活を果たせたと思っている。しかし、ふとした瞬間に、退場経験者としての引け目が付いて回る。拭い去れないコンプレックス。「昔は頑張ってたんだろうけど、当時のことなんて知らないし」と思われたら何も言い返すことはできない、その無力感。「性懲りもなくまだ音楽やってるの?」と思われてるんじゃないだろうか、みたいな被害妄想にも似た感覚にさいなまれることもある。そういったネガティブな感情を吹き飛ばすためにも、いま現在の自分自身を純度100%でぶつけられる『何か』がほしかった。

そんななか、同時多発的にいくつもの刺激を受けて、心の中に澱んでいたネガティブな思いがぎゅっとひとかたまりになり、ぐるんとひっくり返って『弾き語り』という着地点にドンッと落ち着いた。そんな感じで、ようやく弾き語りを始めるにいたったのだ。


元から、こんな風に順序だてて考えていたわけではない。ライブを前に大あわてで心の内を整理したらこうなっただけなので、ちょっと都合が良すぎる感じもする。くよくよ考えすぎで「なんだかしみったれてるな」とも思う。

今年2月から3月前半にかけて、ライブに向けて新曲をぞくぞくと作った。誰かの敗北感に寄り添うような歌詞や、しみったれた歌詞が多く「なんでこうなったんだろう」と思っていたのだが、弾き語りをやろうと思った本質的な理由に『しみったれ要素』が含まれていたのだから当然だったのだろう。初ライブでは、構成の都合上、新曲すべてを披露することができないので、しみったれ感は薄まるはず。半分以上はエネルギッシュな曲を演奏する。

繰り返しになるが、知らんおっさんの弾き語りなんて、誰も見たいと思わないのは重々承知だ。ただ、こんな何者でもない自分ごときが「弾き語りをやるんで」と声を上げたことによって「見に行くよ」「見に行きたいな」と思ってくれるような身近な人たちが、ありがたいことに何人かいる。そういう人たちを裏切るような演奏はしたくない。だからライブに向けて全力で準備する。そして「こんな感じなんですけど、これからも音楽を続けていいですかね?」とパフォーマンスを通じて暗に語り掛け、「きみが音楽好きなのはわかった。これからも好きにしたらいいよ」みたいな感じで認めてもらえるのなら、こんなにうれしいことはない。そのために弾き語る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?