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やさしさに咲く花

「士郎、おまえは花が好きなんだなぁ」

 晴男に声をかけられた士郎は、テーブルに広げた図鑑の写真を観ながら花の絵を描いていた。孫がクレヨンを次々と持ちかえながら一生懸命絵を描く姿を、晴男はロマンスグレーの長い眉に隠れてしまいそうな目を、さらに細めて見守っている。

「うん。きれいだから」

「そうだな。花が好きな人は心も綺麗だ。男のくせに花なんて好きなのかとかバカにする輩もいるだろうが、おまえは自分の気持ちに正直に、花を愛し続ければいいんだぞ」

「うん」

 晴男がなんでそんな忠告をするのか、幼い士郎にはわからなかったが、とにかくこのままでいいんだと思い、安心して絵を描き続けた。9歳の男の子にしては、いささか繊細過ぎる色遣いであったが、ずっと眺めているとなんとも言えない力強さが伝わってくるような絵だった。

「おじいちゃん、この花なんていうの?」

 小学校4年生の士郎には“秋桜”という漢字はまだ読めなかった。

「コスモスだ。気に入ったか?」

「うん。きれいだから」

 士郎はさっきと同じ言葉で応え、ちょっと間をおいてから、

「これ、一番好き」

 と、少し照れた様子でつぶやいた。そんな士郎の頭のてっぺんを、晴男は二度ほどやさしくなでながら、

「そうか、それはよかった。本当によかった」

 と言って、しわくちゃの笑顔のまましきりに頷いていた。

 晴男は20年も前に妻に先立たれてしまったのだが、その後新たなパートナーを探すこともなく、一緒に住もうという娘夫婦の申し出も断って、彼らの家から電車で30分のところにある純和風の一軒家で慎ましく暮らし続けていた。玄関を入ったすぐ右手にある履物入れの上には、あたたかい木目の写真立てにおさまった亡き妻の写真が、いつも埃ひとつない状態で飾られていた。それは彼女がひさしの大きな白い帽子をかぶり、右手にピンク色の秋桜を持って曖昧に微笑みながら花びらをみつめているところを捉えた写真だった。
 
 独りになっても料理や掃除といった家事の一切を自分でやるのは、若いものに迷惑をかけたくないという想いと、俺だってまだまだやれるという意地みたいなものの表れだったのかもしれない。家の裏手にある広々とした庭にはキュウリやトマトを植えて栽培し、片隅に生えた立派な梅の木になる実は、毎年自分で梅干しや梅酒にして近所の人たちに分け与えるのが楽しみだった。和服のよく似合う昔気質の男だった。

 そんな素朴でやさしい晴男を、士郎は大好きだった。家族の行事で会ったときには、トマトのつくり方を教えてくれたり、セミの一生について解説してくれたり、よくは理解できないながらも、男という存在や人生そのものについて語ってくれたりした。彼の話を真剣に聴く時間は特別に愛おしかった。もちろん、学校の先生で晴男ほどの刺激を与えてくれる者などはひとりもいなかったし、同年代の友達と遊ぶことの楽しさには、晴男と過ごす時間が与えてくれるものの十分の一にも満たない価値しかないように思えた。

 士郎は無口な少年だった。自分の思っていることを言葉にして積極的に表現する子供ではなく、むしろ自分の空想の中でゆらめいているのが好きだった。母親の美津子は、自分が創り上げた空想上のキャラクターを指で演じて独りでお芝居をしたり、絵を描いたり本を読んだりしかしない息子を心配して、担任の先生に相談に行ったこともある。他人とうまく関われてないのではないかと思って不安だったのだ。しかし、美津子の懸念にじっくりと耳を傾けてくれた30代前半の爽やか青年の先生は、日に焼けた健康的な笑顔でこう応えるのだった。

「士郎君はいい子ですよ。確かに独りでいるのが好きな様子も見てとれますけど、仲の良い友達はちゃんといるようですし、みんなともうまくやっています。私の目から見ると、すごく素直で好奇心の強い子ですね。大人しいからあまり口にはしませんが、いろんなものに興味を持っているようですよ」

 普通の男の子のように野球やサッカーに夢中になることはなかったが、好奇心だけは飛び抜けて旺盛な士郎の欲求を満たしてくれるのは、晴男しかいなかった。だから、正月やお盆の時期に親戚同士で集まるイベントを、士郎はいつも楽しみにしていた。晴男と触れ合える貴重な機会だったからだ。
 
 しかし、そういう特別な時でなくてもいつも会いたくて仕方がなかった士郎は、あるときついに我慢ができなくなって学校帰りに自分で電車に乗り、両親の心配をよそに晴男の家まで遊びに行ってしまった。それは士郎がまだ小学校2年に上がったばかりの頃のこと。お遣いならともかく、幼子の自発的な行動としては無謀と評されるべき冒険であった。突然の訪問に晴男は驚いたが、そんな士郎を叱るでもなく、追い返すでもなく、

「よくひとりで来れたじゃないか。折角だからご飯でも食べていけ。今夜は庭でできたニンジンを使った豚汁だ」

 とだけ言って穏やかに迎え入れた。当然、士郎は両親からあとでこっぴどくお叱りを受けることになったのだが、それでも彼はまた晴男のところに遊びに行った。何度叱られても、通うのを辞めようはしなかった。叱られて泣き腫らした後で両親に向ける眼差しは、いつも抗議と懇願の光に満ちていた。そこに「僕の楽しみを奪わないでくれ!」という心の叫びを含んだ気迫が籠っているのを感じ、美津子もたじろいでしまうのだった。そして、帰ってこないときは決まって晴男のところに行っていることを知り、特に不安に思うこともないことを知った両親は、やがてそんな彼の行動を赦すようになった。

 まるで塾に通うかのように、士郎は晴男の家を頻繁に訪れるようになり、それまで以上にもっといろんなことを教わるようになった。正しい箸の持ち方、卵のうまい割り方、遠い異国の歴史について、もぐらの生態について・・・晴男の話はいつも興味深かった。縁側に胡坐をかき、両膝に手のひらを載せてつぶやくように語る晴男の横顔を、士郎は無言でみつめて聴き入りながら、まずはできるだけのことを理解しようと努めた。そしてどうしてもわからないことがあると、士郎は手を挙げて質問した。

「おじいちゃん、ベトナム人はなんでそんなに強かったの?」

「おじいちゃん、どうしてショウガは咽喉にいいの?」

「おじいちゃん、セミはどうしてあんなに鳴くの?」

 煩く質問し続けるのではなく、自分で何らかの解答を導き出すのが無理だと思ったときに、意を決したように手を挙げるのが士郎のやり方だった。そして、そんな素朴で鋭い士郎の質問にも、晴男はまるでオリジナルの物語をつむぐかのように、ひとつひとつ丁寧に応えるのだった。二人の会話は決してたくさんの言葉で満たされているわけではなかったが、確かにお互いを解り合うことができていた。

 晴男はまるで口癖のように、いつも士郎に言った。

「愛してやるんだぞ。」

 初めはどういうことかよくわからなかったが、それは士郎には特別な思いやりの染み込んだ言葉に思え、ひとりになったときに自分でもそうつぶやいてみたりした。

「愛してやるんだぞ。」

 和室の押し入れからカナブンが飛び出したときも、おじいちゃんはそう言ったっけ。確か初めて大好きなトラの模型をくれたときにも言っていた。じゃあ、愛してやろう。なんでも愛してやるんだ。おじいちゃんがそう言うんだから。士郎はそう自分に言い聴かせて満足した。

 いつだったか、美津子は学校から帰ってきた士郎が、手に燕の死骸を持っているのを見て唖然とした。

「あんた、それどうするつもりよ!」

 狼狽する美津子には目もくれず、士郎は車庫の奥からスコップを持ちだして玄関脇の土の部分にさっさと穴を掘り始めた。

「ちゃんと埋めてやるんだ。こいつ、駅でよく見かけたんだよ。ちっちゃい燕たちに一生懸命エサやってた。何で死んだんだろうな」
 
「そんなのいちいちうちに持って帰らなくていいのよ!」

 気持ち悪がる美津子に、士郎は言った。

「愛してやんなきゃ」

 愛することの意味なんて、士郎は言葉で説明することなどできなかったが、テレパシーが使えたとしたら、ちゃんと人にも伝えられる気がした。

 あるとき、いつものようにひょっこりやってきた士郎に、晴男は外出用の和服に着替えながら言った。

「映画を観にいくぞ」

 士郎はまだ映画館で映画を観たことがなかったので、満面の笑みで頷いた。そして実際に連れて行かれたのは、日本のアニメなどではなく、ディズニーでもなく、外国の男女のラブストーリーを描いた大人の映画だった。当然、最初は何が何だかわからなかった。高性能のスピーカーから聴こえてくる英語の会話は、まるで歌の掛け合いのようにオシャレに響いたが、何の意味もなさないその旋律をどう処理すればいいかわからず、ただただ戸惑っていた。そしてとにかく知らない漢字だらけの字幕をなんとか読んでみようと思い立ち、現われては消え、消えては現われる文字列を必至に目で追い続けた。すると晴男は途中でそのことに気づき、

「士郎、字幕なんていいんだ。どうせ読めんだろう。人を見ていればいい。何をしゃべっているかわからなくても、表情や仕草から感じ取れ」 

 それから士郎は、じっと男と女のやりとりを食い入るようにみつめた。細かいところはよくわからなかったが、男が女を愛し、全力で大切にしようとしていることだけは理解できた。女は最初、なぜか男を拒んでいるようだったが、少しずつ心を許していくように思えた。
 
 クライマックスのシーンは忘れられなかった。男が女にキスをしたのだ。それは、やさしいやさしいキスだった。士郎はドキドキした。これがおじいちゃんがいつも言っている愛というものなのか。何か見てはいけないものを目の当たりにした罪悪感と優越感に近い不可思議な感情が複雑に入り混じって、彼の小さな胸の中で華麗に渦巻いた。映画が終わり、手をつないで家に帰る道すがら、晴男は士郎に言った。

「人を愛するというのは、ああいうことだ。よく覚えておけよ」

 晴男はなぜか声をあげて笑っていた。何がそんなに可笑しいのだろう?士郎は不審に思いながらも、そんな疑念はすぐに忘れてしまい、あのキスシーンを頭の中で何度も何度も繰り返し再生することに夢中になった。すると晴男とつないだ手がべっとりと濡れていくのがわかって慌てて離し、ズボンのお尻のところで拭いたりした。晴男はいつも、士郎の掛け替えのない先生だった。

 ところがある秋の夜、晴男は何の前触れもなく斃れた。くも膜下出血だった。様子をうかがいに来た近所のおばさんが異変に気づいたときには、晴男の身体はもう冷たくなっていた。やさしい命が、一瞬にして奪われてしまった。誰にもその悲運の波を押し返す権利はなかった。晴男を唯一無二の先生として慕っていた士郎にさえも。

 初めて着る喪服の違和感に耐えながら、士郎は葬式の畳の上で呆然としていた。棺桶におさまった、もう二度と動くことのない晴男の血の気のない顔を見たときも、涙なんか出なかった。燕や猫の死には触れたことがあっても、身近な人間が息絶えるという現実に初めて直面する幼い士郎には、事の本質を理解することができなかったのだ。哀しみよりも、それまでの晴男との愉快な生活はどこへ行ってしまうのだろう?という不可解な想いが勝り、しきりに首をかしげながら過ごす日々が続いた。晴男に会えない時間が長くなるにつれ、漠然と感じていた寂寞にようやく輪郭が備わっていく気がした。

 晴男の死から一カ月が過ぎた頃、荷物を整理するため、美津子に連れられて彼が住んでいた家を訪れた士郎は、箪笥の中に一枚の紙切れをみつけた。そこには味のある毛筆の文字で書かれた、こんなメモが残されていた。

長野県 黒姫高原コスモス園
JR信越本線黒姫駅 バス15分
10月3日 士郎

 10月3日とは、その翌日にあたる日曜日のことだった。士郎はメモ書きをそっとポケットにしまった。母親には何も言わなかった。玄関を出るとき、履物入れの上にある晴男の妻の写真を見た。晴男の妻はいつにも増して美しく見えた。彼女の存在は、手にしたコスモスと完全に溶け合い、もはや一つの生き物のような一体感を伴って生き生きと呼吸しているように思えた。じっと黙ったまま立ち止まって写真をみつめている士郎の手を、不意に美津子が握った。

「ほら、帰るわよ」

「うん」

 士郎は美津子に促されて外に出ながらも、首だけ後ろに残してギリギリまで写真から目を離そうとしなかった。
 
 翌朝、士郎は貯めておいたお年玉を短パンのポケットにねじこみ、晴男の遺したメモを右手に握りしめて、家を抜け出すタイミングをはかっていた。母親が買い物に出かけ、父親が囲碁の番組に夢中になっているのを確かめると、士郎はこっそり出発した。

 ひとりで電車に乗るのは慣れている。駅員やバスの運転手に黙ってメモを見せながら、素直に指示にしたがって乗り換えを繰り返し、何時間もかかってようやく長野県の黒姫駅に着いた。改札を出た頃はもう陽が傾きかけていた。運転手に確認して乗り込んだバスが、オレンジ色に染まり始めた西の空へ向かって走ってゆく。士郎は無意識のうちに爪を噛みながら窓外の景色に目を奪われていた。正体のわからない興奮と、それと同じ量の不安が士郎の体の奥で絡まり合い、蠢いていた。扉が開き、気さくな運転手が指示してくれた方向へ歩いていくと、「黒姫高原コスモス園」という立派な看板が見えてきた。そのすぐそばにあった受付で入園料の200円を支払ったところで、窓越しのお姉さんがニッコリ微笑みながら声をかけてきた。

「ボク、ひとりで来たの?」

「ううん。おじいちゃんと」

「ああ、そうなの。じゃあ、あとから来るのね。ここで待ち合わせかな?」

「・・・コスモス、どこ?」

「この先をまっすぐ行くと、一番綺麗なところに出るわ。おじいちゃんが来たらボクがそっちに行ったって、お姉ちゃんが伝えておいてあげるからね。すぐ来るのかな?もうすぐ閉園だから、あんまり時間はないわよ」

「うん、ありがとう」

 長く伸びた自分の影を引きずりながら少し歩くと、突然視界が開けた。急な下り坂にさしかかって、小高い丘の上から野原を見下ろす格好になったのだ。そしてそこには、士郎がかつて観たこともないような絶景が広がっていた。図鑑で見たものよりもはるかに生き生きとした艶やかなコスモスたちが、淡い白やピンクの帯を編んだ織物のようにびっしりと咲き乱れ、そよ風の気まぐれに身を委ねて滑らかに揺れていた。夕日の橙色がその見事な織物にさりげない差し色を加え、息をのむほどの繊細な美しさを演出していた。

「わあ・・・」

 士郎はしばらくそこに立ち竦んでしまったが、やがて思い出したようにまたゆっくりと右足を持ちあげると、一歩一歩噛みしめるように歩きだした。そしてそのまま花の織物の中に迷い込み、まるでそうすることが必然であったように、寝転がって大の字になった。蜜のような花の香りが、品よく降り注いで胸を満たしていった。士郎は目を閉じた。

「愛してやるんだぞ」

 そのとき、おじいちゃんの声が聞こえた気がした。晴男の穏やかな微笑みが、士郎の脳裏に蘇った。ロマンスグレーの眉毛、気に入っていた気流しの和服、梅の実をひとつひとつ丁寧にもいでいる力みのない姿・・・。想い出が弾けるように次から次へと蘇ってきた。

「おじいちゃん・・・」
 
 士郎はようやく晴男が死んでしまったことを理解できたように思った。晴男の遺した愛のかたち、晴男が命に代えて届けた贈り物を、士郎はその小さな心で受け止めたのだ。

「おじいちゃん、ありがとう」

 いつのまにか、士郎の赤い頬を涙がつたっていた。その涙の上に、ピンク色の花びらがひとつ、ひらひらと舞い降りた。

(了)

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