イヤサカ 第2章
実のところ、ノジカが一番敗北を噛み締めたのは、カンダチ族の船に乗せられた時のことだった。
神の火の山のふもとには雪解け水を源とする川がいくつか流れていて、うち何本かが合流して一本の大河を形成している。
カンダチ族はその大河を船で遡ってやって来た。
川岸に住まう山の民を破竹の勢いで制圧し、最終的に火の山の女神とその眷属たるマオキ族をも打ち倒した。その勢いはまさに電光石火、ほんの二、三ヶ月のことであった。
その快進撃を裏で支えていたのがこの船だ。
ノジカたち山の民が使い慣れた丸木舟ではなかった。数え切れぬほどの板を並べてつくられた、ノジカを二十人積んでもなお余りそうな巨大な船であった。中央には支柱を立て、巻いた布を吊り下げている。へりには、おそらく櫂を固定するのであろう、いくつもの穴が開けられている。しかもそれが一艘ではない、川べりの一帯に十艘ほどが並べられ停泊している。
この船なら人員や物資を一気に輸送できる。
カンダチ族は海のかなたから来たという。マオキ族はそんなカンダチ族を遠国からさまよってきた蛮族と侮っていた。しかしふたを開けてみれば自分たちの持たぬ高度な造船技術を持っていたということだ。たかをくくって備えず臨んだマオキ族には最初から勝ち目がなかったのだ。
しかも、カンダチ族には体格のいい若者が多いように思う。船を漕いできた歳月が彼らの体を鍛えたのだろうか。海に馴れているなら泳ぎもするだろう。その練り上げられた体躯で戦い続けてきたのだ。
マオキ族も、険しい山中で暮らしているため、諸部族よりは身体能力に優れていると言われている。しかし長きにわたる平穏に慣れ、平均年齢は上がり、若い戦士には対人の実戦経験がなかった。ノジカ自身もだ。戦士として並みの男より優秀であると言われてはいたが、獣の狩りや武術の稽古の試合が達者であっただけだ。
こたびの戦では、カンダチの戦士たちを前にして身の危険を感じたため、ノジカはろくに刃を交えることなくナホのもとへ帰参した。だが長老たちはそんなノジカを褒めた。曰く、一太刀で彼我の力量を見極めて退くことができたのはノジカが強く賢いからだ。けれどカンダチの戦士ほどには強くない。
アラクマに手を引かれて、船に乗り込む。底が平らで広い船は安定していてさほど揺れなかった。
「旅はまだ続く。ゆっくり景色を味わえ」
そう言うと、アラクマはノジカを放って部下たちに船を出す指示を始めた。
もとより抵抗する気などなかったが、カンダチ族の強さの真髄を見た今となってはなおのこと何もする気になれない。ノジカはおとなしく辺りを眺めた。
山は真っ赤に燃えて秋の終わりを告げていた。これからつらく厳しい冬が来る。今年の冬は寒くなりそうだ。
ノジカの足元に米俵が積まれた。戦利品だ。
川岸を見る。カンダチの戦士たちが行儀よく列を作って荷を積む順番を待っている。たくましすぎる肉体と全身に及ぶ刺青が異様に見えるだけで、彼らには彼らなりの秩序があるように思えた。女神を囲って奢りたかぶり他の部族を野蛮と決めつけていたマオキ族の方こそ蛮族なのかもしれない。
大量の積み荷をのせてから、戦士たちはそれぞれ船の端に並んで座り、櫂を穴に設置した。
アラクマの号令に合わせて、戦士たちが碇を上げた。櫂が水をかいた。船がゆっくりと川岸を離れた。
マオキ族は負けるべくして負けたのだ。自分たちはもうもとには戻れない。
ノジカは膝を抱えてそっと目を閉じた。
神の火の山には一柱の女神が住んでいる。
美しいが荒ぶる気質の女神は、山に穢れた人間が近づくことをよしとせず、かつては人間が近づいて事を起こすたびに炎を噴き上げて人間を殺していた。
女神を恐れたふもとの人間たちは、未来永劫女神を崇め奉ることを誓い、武勇に優れた見目好い男子を捧げることでゆるしを乞うた。女神は人間たちを自らの奴隷として認め、人間たちが神の火の山に住むことをゆるし、捧げられた男子を夫として扱った。
その女神と人間の夫の血をひき、人間でありながら人間でない、炎を操る力をもって生まれてくる娘たちが、ホカゲ族だ。
人間たちは娘たちを女神と人間を結ぶ存在として崇め、尊び、自らの上に立たせて、女王の座に据えた。いずれ来る日に娘たちが女神から人間を救ってくれるものと信じて奉じ続けることと決めた。
しかし母から炎を操る力を受け継いだ赤子は年々減っていった。かつては神の火の山の至るところに住んでいた炎の娘たちはいつしか希少な存在となった。
今の代に至っては、聖なる炎をその身に宿すのはナホただ一人だけだ。
ホカゲ族は女神の娘の一族だ。いまだかつて男にその力が現れたことはなかった。
ナホは男児だ。けれどナホの能力は紛れもなく本物で神であることを疑う余地はない。
ナホの母親である先代の女王とマオキの長老会の一同は、ナホが赤子のうちに彼を次の女王として育てることに決めた。
ホカゲの娘はホカゲの娘にしか産めない。けれどホカゲ族の血を引くと断言できる者はもうナホしかいない。
困り果てたマオキの一同は、ナホを女王として立てる裏で、ナホに嫁を取らせて密かに子供を作らせることを考えた。
そこで選ばれたのがノジカだ。
ノジカは族長の長女で、物心がついた時からナホに仕えていた。ナホはノジカによくなつき、いつでもどこでもノジカについていきたがった。ノジカの方がふたつ年上なのは少し議論になったようだが、ナホ自身が馴れ親しんだ娘の方がよかろうということで、ノジカをナホの形式的な夫として扱い、将来的にはノジカにナホの子供を孕ませてホカゲの娘が産まれるよう祈る、ということで一致していた。
ノジカはそれがマオキの皆のためになると信じていた。自分を守り育んできてくれた皆に恩を返すにはそれが一番いいのだと、自分が生涯ナホに身を捧げ次のホカゲの女王を産めば皆が幸せになるのだと、頑なに信じてきた。
それが果たされる前に、マオキ族がカンダチ族に敗北する。
優先順位が変わった。
あのナホを他の娘に任せるのは少し不安だったが、今は小さな女の子たちも育てばいつかはナホの子を産めるだろう。それに、どこへ嫁がされようとも、マオキ族のためにからだを男にゆだねる仕事であることは一緒だ。ノジカの務めは変わらない。
河の下流に辿り着いた。
ノジカは生まれて初めて目の前で見る海というものに感覚のすべてを奪われた。
どこまでも広がる紺碧の水面、それでもなおすべての水を覆い包み込む蒼穹、寄せては返す白い波、頬を打つ風の香りは塩辛い――遠い山の頂から見ていた海とはまるで別物だ。想像よりずっと雄大で壮大な景色だった。
白い浜辺に木の板の壁でつくられた建物が並んでいる。水面下、おそらく地中深く砂の下まで長い杭を打って柱としているのだろう、すべて海の上に浮かんでいるように見えた。中には大きな舟を浮かべてその上に小さな小屋を建てたものもある。
カンダチ族は海の上で生きているのだ。
河辺にひとびとが詰めかけていた。きっと先触れを出していたに違いない。皆並んで戦士たちの帰りを歓迎している。笑みを浮かべる日に焼けた頬はいずれも健康的だ。全体が若々しく見えた。
女が数人出てきて、ノジカの手を取った。
「ようこそ、カンダチの新しいくにへ」
「最初の王にマオキの姫君を迎えられたこと、心より嬉しく思います」
まだ始まったばかりなのだ。一から生活を始めたところで、本当に、全体的に若いのだ。
膨らみ切ってこれからしぼむばかりのマオキ族ではとうてい敵うまい。
気を引き締めなければ、と思った。マオキ族には長年山の民を束ねてきた叡智がある。まつりごとをすべて統括するのはまだ若い部族であるカンダチ族にはできないはずだ。役割分担をすればマオキ族の活躍の場を守れる。自分がうまく立ち回ることで、これらの部族の仲立ちをしてふたたび正面衝突しないよう調整していくのだ。
それが嫁の務めだ。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、ある女性の姿が目に留まった。人だかりから距離を置いて浜辺にひとりぽつんと立っている女性だ。どこかぼんやりした目でノジカを眺めている。
彼女は、ノジカが彼女の方を見たのに気づくと、愛想の良さそうな、穏やかな笑みを浮かべた。簡易な貫頭衣に身を包んでいるが、どことなく上品そうだ。
細く長い手足に反して腹部が膨れている。きっと妊婦だ。それも相当大きい。産み月が近いのだろう。
少しの間、目が合っていた。
何か言いたいことでもあるのかと思ったノジカは、彼女の方へ近づこうとした。けれど周りの女たちや戦士たちが邪魔で自由に歩けない。
ややして、彼女は、ノジカに背を向け、海の方、浜辺に建つ家のひとつへ向かって歩き出した。
その背を追う者はなかった。
その日の夜も、晴れていた。
ノジカはひとり、布団の上に正座をした状態で息を吐いていた。
自分のからだを見下ろす。カンダチの女たちに着せられた衣は前合わせで簡単に開ける仕組みになっていた。中は素肌だ。
覚悟は決めていたはずだった。ひとのものになればいつかこういう夜も来る。しかしノジカは長年その相手をナホで想定していた。ナホがもう少しおとなになったら――ナホがもう少し男らしくなったら、などと言って先延ばしにしてきてしまったが、ナホとのその日は遠からず来ると信じていた。ナホのことだからきっと甘えてくるだろう、その時には女といえど年上の自分がある程度導いてやらねばなるまい――そう思い、村の女たちからそれとなく知識を仕入れて支度してきたものだ。
自分の胸を押さえる。
怖い、のだろうか。
ノジカは自分をもっと強い人間だと思っていた。ひとりの戦士として、ナホの守護者として、強くたくましく冷静な人間なのだと思っていた。
それでも、会ったばかりの男と契らねばならぬとなれば、恐ろしく思うのだろうか。
大事な仕事だ。子をなしてマオキ族とカンダチ族の仲立ちをしなければならない。立派に務めなければならない。
まぶたを下ろし、大きく息を吸う。
これは戦だ。女はこうやって戦うものなのだ。
戸の外にひとの気配を感じた。ややして戸を叩く音が聞こえてきた。
「支度は済んでいる。入れ」
落ち着いた声が出た。ノジカは自分の強さにひと安心した。
マオキ族の――山の民のためを思えば醜態を晒さずに夜を乗り越えられる。
戸が引かれた。
アラクマがひとりで立っていた。
彼は黙って部屋に入ってきた。すぐに後ろ手で戸を閉めた。
戸を閉め切ってもなお窓から入る月明かりで部屋の中は明るい。互いの顔がはっきりと見える。
化粧は勇気のまじない、夜着は戦装束だ。相手にとって不足のない、強く美しい女に見えるといい。
覚悟は決まった。
ところが、だった。
アラクマは、無言で部屋の真ん中へ移動すると、ノジカが座っているのとは別の、もう一組の布団の端をつかんだ。そして、戸とは反対側の壁へ寄せるように引っ張り、ノジカの布団との間に距離をつくった。
自分の布団に横になる。
「寝ろ」
アラクマが何をしたいのか分からず、ノジカは目をまたたかせた。
「どういうつもりだ」
「いいから黙ってもう寝ろ」
思わず尻を浮かせた。
「貴様何もせずに寝る気か」
「ああ。ここのところ戦続きの旅続きで疲れてるからな。少しでも休みたい」
「初夜だぞ、花嫁に恥をかかせるのか」
「そんなに俺に抱かれたいのか? 意外だな、あの大部族マオキの姫君だからもっと強情で気位が高いお姫様かと思っていたのに、そんなに軽々しくカンダチの野蛮人に身をゆだねていいのか」
「軽々しくではない、マオキ族とカンダチ族の同盟のために子をつくるのではなかったのか? 私はマオキの姫としてカンダチの長の子を産むんだ」
「勇ましいお姫様だな」
枕の上に肘をつき、手の上に頬杖をつく形で顎をのせる。
「これっぽっちの気持ちもない女を犯して悦ぶ趣味はない。お前が損得抜きで俺になついてきたらにする」
拍子抜けして、ノジカは布団に尻をつけた。
「カンダチの族長は世襲制ではないから焦って子をつくる必要はない。自分は母親が嫌々産んだ子なんだと思ったら子供は不幸だ。でもこどもは嫌いじゃない、人は殖えた方がいい。心底産みたくなったら種をつけてやるから改めて言ってくれ」
「なんだか……、お前は意外と乙女趣味なところがあるようだな」
「たまに言われる」
姿勢を崩して、足を前に出して膝を抱える。肩から力が抜ける。
相手は、なにも、恐ろしい蛮族の王というわけではないらしい。少なくとも、荒々しくされて痛い想いをするということはなさそうだ。
「お前に何かあったら今度こそ刺される気がするしな」
「誰に」
「マオキの村に泊まった夜、ちょっと面白い出会いがあった」
布団に身を横たえつつ、アラクマの顔を眺める。愛想がないように感じるが、特別攻撃的にも思われない。
「誰かマオキの人間が何かしたのか」
「マオキ族じゃないだろ。追い詰めたら手から炎を出した」
聞いた途端、胸が冷えた。
「あれがお前らの言うところの神の力なんだろ?」
ナホだ。
脈が速くなるのを感じる。けれど顔に出すわけにはいかない。
ナホがノジカの知らないところでアラクマに接触している。
「名乗ってはいないのか」
「ああ、問い詰める前に火を噴きながら逃げた。でもあれがホカゲ族だというのは分かった。そんな妖術使いどこを探しても他にいないはずだ」
何と言おうかと考えあぐねた。
「ホカゲ族には男もいたんだな。噂では女ばかりだと聞いていたが、王になれるのが女限定というだけで、別に男がいないわけじゃないのか」
だが、それを聞いて、ノジカは少し考えた。
ひょっとしたら、遠くから来た異民族のアラクマは、ホカゲ族がもうナホ一人しか残っていないことを知らないのかもしれない。女王を装っていないナホを女王ナホだと思わなかったのかもしれない。
「知り合いだろ? 心当たりあるだろ」
おそるおそるながらも、ノジカは頷くことにした。
「彼が、何を?」
「あのガキ、俺がお前を連れていくことが不満らしくて、夜中に剣持って俺の寝込みを襲いにきたぞ」
「えっ」
驚きのあまり声を出したノジカを、アラクマが声を殺して笑った。
「あの子がそんなこと」
「この俺を殺そうとするくらいだ、よっぽどお前に惚れてるんだとみた」
ナホが、自分に惚れている。
胸に熱いものが込み上げてくる。
親同士が決めたいいなずけだからというわけではなかったのだろうか。ナホは本当にノジカをと望んで夫婦になれる日を待っていたのだろうか。
ナホは無鉄砲なところはあるがけして愚かではない。女王としての体裁を考えたらカンダチの族長の暗殺など無茶だと分かる程度の分別はあるはずだ。それをおしてでもアラクマを殺したいくらい憎むほど、ノジカが奪われることを悔しいと思ったのだろうか。
目の前が涙で歪んだ。
別れる直前の朝、ナホは腫れ上がった頬をしていた。どこで誰に何をされたのかけして言わなかったが、アラクマと揉み合ったのかもしれない。
そんな痛い思いをしてでも、ノジカを取り戻そうとしたのか。
馬鹿、と言って叱ることすら叶わないほど遠くに来てしまった。
アラクマに背を向け、掛け布団で頭を覆う。
それでもナホは耐えた。我慢してノジカを送り出した。ナホはきっと自分の気持ちだけではどうにもならないことを知ったのだ。
今頃きっとひとりで噛み締めている。
すぐに抱き締めてあげたい。
こんなことならもっと早く通じておくべきだった。ナホにそういう気持ちがあったのならせめて思い出のひとつでも作っておくべきだった。
もう会えない。
ノジカは初めて寂しいと思った。ひとりでカンダチの村に来たことを、心細いと、つらいと、マオキの村に帰りたいと思った。
ナホを、愛しいと思った。
あの子も今頃寂しがって泣いているかもしれない。
「……俺が泣かせたみたいになったな」
「申し訳ない」
「まあいい。お前も疲れただろ。すっきりしたら寝ろ」
それきり、アラクマは何も言わなかった。ノジカも声を掛けなかった。溢れた涙をひとしきり流してから、黙って目を閉じた。
カンダチの娘たちは良くも悪くもあけすけで開放的だ。マオキの娘たちの社交辞令を含ませた物言いにはノジカも辟易したものだが、カンダチの娘たちのあっけらかんとした態度は時に無遠慮なので、これはこれでノジカを疲れさせた。
浜辺を歩いて村の中を探索しようとしていたところ、数人の娘たちに囲まれた。そして初夜について根掘り葉掘り訊かれた。ただでさえ湿気の多い海の風に難儀しているところだ、まとわりついてくる娘たちの賑やかな声が余計に堪える。
「ええ、ほんとに何もなかったの? どうして? せっかくの新婚初夜なのに、楽しみじゃなかった?」
「楽しみなものか、遊びではないんだぞ」
「そりゃそうよ、子種を受けるかどうかは女の人生で一番重要なことよ。一世一代の晴れ舞台じゃない!」
収穫もなかったわけではない。娘たちの話からカンダチ族における男女観や若い女たちの間のアラクマに対する評価が見えてきた。
どうやらカンダチ族では強い男が一人で幾人もの妻を抱えるものらしい。マオキ族でも家の長は複数妻をもって跡継ぎを作るものだったが、カンダチ族は世襲をよしとせず、とにかく実力があって強い男の血筋を継ぐのが女の幸福だと思っているようだ。強い男はカンダチの女たちの共有財産なのである。カンダチ族ではこうして強い戦士が作られてきたのだ。
「いいなあ、私もアラクマの赤ちゃんが欲しい!」
「独り占めしないでよ、ここにいるみんながアラクマの妻になりたがってるんだから。みんなで分け合おうよ」
「そうよそうよ、アラクマはみんなのものよ」
無邪気に語る娘たちに対して、ノジカは逆に不安を感じた。
「私の都合は気にするな、皆好きにしてくれ。私はアラクマを自分のものだと思ったことはないし今後未来永劫ない」
娘たちが「だめだめ」「正妻はマオキの姫様なんだから」と否定する。
「族長の正妻はちゃんとした女でなくちゃ。族長が戦で留守の時には民を率いる務めがあるんだもん」
「それに、誰かが正妻を差し置いて抜け駆けすると喧嘩になるよ。ちゃんと話し合って決めて子供を作るの。妻のみんながいつ誰が身ごもったか把握した上で、妻同士で助け合って産むものよ」
「なるほど」
それはそれで筋が通っているように思うから不思議だ。カンダチ族では守られてきた掟なのだろう。嫁に来た自分の方が徐々に慣れていかねばなるまい。
何気なく河辺に移動する。家々の建ち並び方がまばらになっていき、小さな小屋のような家が目につき始める。
ある小屋からひとりの女性が出てきた。大きな籠に洗濯物とおぼしき布を山ほど積んで抱えていた。
ノジカは彼女に目を留めた。
昨日船を降りた時に見掛けた妊婦だ。
「いけない」
娘たちを掻き分けて、彼女の方へ向かおうとした。
「彼女を手伝おう」
娘たちが彼女の方を見た。
次の時、眉をひそめた。
「あのひとには関わらない方がいいよ」
カンダチ族に来てから初めて見た負の面であった。
「いいんだよ、ほっとこう」
「なぜ? 女たちで助け合って子を産むものなのではないのか? 万が一のことがあってはと思ったら心配だろう」
「あのお腹の子はちょっと、いわくつきなんだよ」
「どういう意味だ? 赤子には罪はないはずだ」
娘たちが顔を見合わせて黙った。陽気でかしましい彼女たちが沈黙するとはよっぽどのことなのだろう。
「でも、あのひとは、特別だからさ」
ノジカを止めようとしたのか、娘たちが手を伸ばしてきた。けれどノジカは娘たちを振り切った。
子こそ一族皆で共有すべき財産だ。妊婦は守られなければならない。まして特別な事情があるならなおのこと族長の妻のような強い立場にある者の庇護が必要だと思った。
彼女は、河辺に籠を置き、膝をついて洗濯を始めた。
彼女のすぐ傍に歩み寄る。彼女が気づいて顔を上げる。
「こんにちは」
穏やかな、優しい笑顔だった。ノジカは彼女に危険な印象を抱かなかった。むしろ、後頭部でまとめられた長い髪の丁寧なところが、どこぞの高貴な身分の奥方のように見えた。
「ひとりで家事をしているのか。私が手伝おう」
「いいえ、結構ですよ」
声音こそ静かだが言うことははっきりしている。彼女はノジカから顔を背けて洗濯の続きを再開した。
彼女の許可を待たず、彼女の隣にしゃがみ込んだ。そして洗濯物の山から着物を一枚とった。
「二人でやれば早い」
「いけません」
彼女の華奢な手が伸びる。ノジカの手を押さえるように触れる。
「マオキの姫様のような方がなさることではありませんよ」
「マオキの姫はもうやめだ。今はカンダチの族長の妻として、民の、中でも身重のような弱い女性の味方をすべき立場であると考えている」
「そのお志は立派ですけれど――」
後ろを振り返る。娘たちが何とも言えない表情で自分たちを眺めている。距離を置いていてけして手伝おうとはしない。
「他の者たちがどう思うか」
ノジカは首を横に振った。
「そうであればなおのこと、だ。他の誰が人目を気にしてあなたを無視しても私があなたを助けよう」
彼女は溜息をついた。
「大丈夫です。私は望んでひとりになったのですから」
「ひとり?」
眉間に皺を寄せる。
「まさかとは思うが、ひとりで暮らしているのか? 夫君は?」
「おりません」
その手で大きな腹を撫でた。手の動きは優しく、まだ姿を見せぬ我が子を慈しむようだ。
「私はひとりでこの子を産んで育てることに決めました。誰の手も借りないと決めたのです」
不意に男の低い声が会話に割り込んできた。
「ククイ!」
彼女もノジカも顔を上げ、声の聞こえてきた上流の方を向いた。
駆け寄ってきたのはアラクマであった。彼らしくなく険しい表情をしていた。
「何をしている」
彼女が立ち上がりアラクマに向き合った。けれどやはりその表情は険しい。先ほどまでの穏やかな雰囲気とは打って変わって冷たく感じられた。
「あなたには関係ありません」
「いい加減にしろ。もうすぐ産まれるんだろう、いつまでもそうやって突っぱねていられると思うな」
アラクマが手を伸ばした。その手を彼女は叩いて払った。
「ククイ」
彼女の名だろうか。
ただならぬものを感じて、ノジカも立ち上がり、アラクマとククイの間に入ろうとした。ククイを庇うようにアラクマと向き合って立った。
「何のつもりだ」
アラクマが唸るような声で言う。ノジカは一度唾を飲んでから答える。
「どんな事情があるかは知らないが、身重の女性を追い詰めるような物言いはよくない。こんなところで立ち話ではなく、どこかに入って床に座って、落ち着いた状態で話をしたらどうだ」
アラクマはすぐに「そうだな」と言ったが、ククイは頷かなかった。
「私には話すことはありません」
アラクマから顔を背けた。
「だがククイ、俺はお前のことを心配して――」
「本当にそうなら、先に私のお願いを叶えてください。あなたにはできないことではないでしょう。逃げないでください」
ふたたび河べりに座り込み、洗濯の続きを始める。
「私は、本当に、心の底から、怒っているのですからね」
拳を握り締めてアラクマが押し黙る。
「その……、ククイ?」
おそるおそる声を掛けた。
「よく分からないが……、カンダチの村で子を産み育てるのなら、族長とはうまくやった方がいいのでは?」
「必要なら出ていきます」
その意思はあまりにも固い。
「ククイ、出ていかないでくれ」
アラクマが呟くように言った。
「では、今すぐどうにかしてくださいますか」
「だめだ。それだけは――」
「なぜです? 私が唯一望んだことですのに。私は他の何も望んでいないというのに、それを踏みにじってなお、私があなたを許すと思っているのですか」
彼女は断言した。
「オグマを連れ帰ってくるまで、私はあなたを許しませんからね」
第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
第6章:https://note.com/hizaki2820/n/nf97d356d1791
第7章:https://note.com/hizaki2820/n/n52982e0af092
第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113
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