イヤサカ 第6章
深い紺色をしていた海が柔らかな碧色に変わっていく。春が近づいてきている。
「――まあ、ガキの頃からよく喧嘩する双子だったな。物心がついた時から競い合ってた。小さいことでもよく殴り合った」
ノジカはある戦士の男と二人並んで浜辺を歩いていた。特に用事があるわけではなかったが、のんびりとした足取りで河口の方に向かっていた。
「相手ができることは自分にもできなきゃ嫌だってんで、同じことをしたがって、同じことができるようになった。相撲の取り方から綱の結び方まで、何でも似たような機会に同じ程度の技術を習得した。常に競争相手を意識してたからだろうが、二人ともあっと言う間に成長していく。どんどん強くなる。差はつかない」
カンダチ族の歴史はまだ浅いが、そのすべてを確かに見聞きして吸収した語り部は多くない。まして故地を発ってからの全戦闘に参加した者となればなおさらだ。
「俺は何度も止めに入ったが、周りは面白がって煽るんだ。本人たちもどんどん熱くなるし、周りものめり込んでどちらかに肩入れするようになる。誰がどちらか、というのは、もう、単に好き好きだ。二人は性格がぜんぜん違うからな、みんな気が合う方とつるんだ。俺からすれば、どちらかが善人でどちらかが悪人だったという感じじゃあない。強いて言えば、個人的に、悪ぶったりかっこつけたりするアラクマより、何でもざっくばらんにべらべら喋っちまうオグマの方が好きだった」
彼はすでに三十路近く、マオキ族ではまだ中堅に数えられる年頃であったが、カンダチ族では最年長の集団に属していた。すべてを知っているけれど、アラクマは彼を遠巻きに見ている。ノジカはオグマ派の中核にいた人間だろうと察した。だが恐れることはなかった。カンダチの戦士は皆根は気さくだとノジカは学習していた。
「カンダチ族がふるさとを発った時の話は聞いているか」
「ああ、だいたいは」
「年長の連中はあの頃から自分たちが戦死したらあいつらのうちのどちらかが族長になると確信していた。ただ、みんな、おとなになったら自然と喧嘩をしなくなると思っていたんだ。二人が仲良く切り盛りできるようになったら、カンダチ族はきっとでかい部族になってる。そうなったら、二人に任せられる」
遠くを見る。
「正確には、二人を含めた何人かで。合議制の、何でも話し合いで解決するカンダチ族を望んでた。腕力ではなく、おつむと口で何とかするカンダチ族でありたかった」
だが結果はアラクマとオグマを中心として巻き起こった対立だ。実質的には内戦のようなものだったという。
「そうは言ってもみんな頭は一人に決めた方がいいっていうのも分かっていた。指示系統が混乱するといざと言う時に対処できない。いずれにせよ最終的にはどちらかを選ばないといけなかった。だから、仕方がない、と言えば、仕方がない」
「あなたたちはアラクマが族長になったことにまだ納得していないのだろうか」
自分の顎を撫でる。
「どちらが族長になってももう半分は不満だと言っただろうな。オグマが族長になったところで族長を決める過程が一緒だったら結果もきっと今と一緒だ」
そこで一度立ち止まり、ノジカの顔を見た。
「そういうわけで、ここでククイの出番だ」
ノジカは唾を飲んだ。
「ククイはできた女だった。もともとは巫女の家系の娘でな、薬草や星見の知識がある。面倒見もいいし肝も据わってる。みんなククイをあてにしていた」
苦笑する。
「ククイに求婚したのは双子だけじゃなかった。いずれにせよ俺たちは最終的にククイを嫁にした男が族長になると思っていた。ククイの選んだ男が族長になるんだと。ククイが決めたことなら、アラクマでもオグマでも、俺たちは素直に従っただろう。だが、ククイは選ばなかった。両方にいい顔をして、両方と寝た。ククイが族長を決めてくれるんだと思い込んでいた俺たちは、ククイの予想外の優柔不断さにがっかりした。ククイに期待していた分失望はでかかった」
「そういうことだったのか……」
「俺はククイより年上だからな、ククイが可哀想だと思わなくもない。でも、ククイがどっちかに決めてくれりゃあ無駄な血が流れずに済んだという気持ちは今でもある」
そこまで聞いて、ノジカは「了解した」と頷いた。
「私の所感を述べてもいいか」
「おう、聞かせてくれ。他の連中は知らんが、俺はよそから見た俺たちの様子も知りたい」
彼はそう言うが、ノジカは話せばカンダチの皆が聞いてくれる気がしていた。ただ今目の前にいるのがこの男だからこの男に話すというだけであり、誰に話しても誰もノジカを否定しないだろうと思えるのだ。
「すぐにでもオグマを呼び戻してアラクマと話をさせる必要を感じる」
案の定、男は強い拒絶感を示すことなくただ笑った。
「また喧嘩になるだろうけどな」
「これまでカンダチ族のいろんなひとに話を聞いてきたが、アラクマ派もオグマ派も互いからの報復を恐れている。せっかくの勝利の喜びも半分だし、戦利品の分配も公平に行われない。それでも今までは山の民の征服という共通の目標があったから何とかまとまってこられたが、勝利した今、これから先に何かがあった場合は対応できないだろう」
「そうか……そうかもな、俺たちはいつ奴隷に転落させられるのかと怯えている。あいつらを信用していない」
「今のカンダチ族はまだ人口が少ない。ここで階層を分けるのは得策ではない。これ以上溝が広がる前に頭同士で和解すべきだ。それこそ、今のうちに合議制を成した方がいい」
一人頷く。
「一度出来上がった体制を作り変えるのは容易なことではない。未完成のうちに方向転換をしなければ」
そして、そのためには、自分は何をすべきか。
異民族の自分だからこそ、調停できるのではないか。
山の上、河の上流を思う。
この先に、オグマがいる。
何とかして、自分が呼び戻せないだろうか。
河を、眺める。
ふと、嫌な予感が胸中をかすめていった。
「何か、おかしくないか?」
体を河の方に向けた。河面を見つめた。
男が「何がだ?」と問うてきた。
「河の水位が低い気がする」
「冬だからじゃねえのか? 上流は寒い。凍ってんだろ」
「上流も水は凍らないものだ。むしろそろそろ雪が解け始めて水かさが増すはずだ」
河上で何か起こっているのかもしれない。
河は自然のものだ。些細なことで乱れたり整ったりする。多少の変化は仕方がない。ただでさえ山の民が氾濫を抑えるために大規模な工事をしては崩壊して逆に大惨事を招く事故を繰り返してきた歴史があるのだ。ここ何年かは安定している以上、少しの異変があったくらいでは人間が手を加えるべきではない。人間の方が暮らしを変えた方がいい、堤防を整備し、田畑を移動させ、氾濫に備えて生活すべきだ――それが山の民の共通認識だ。
山の民の情報網はしっかりしている。マオキの村にはきっとすでに川辺の部族から注意喚起情報が回ってきているだろう。何が起こっているのか調査しているかもしれない。
カンダチ族にいると山の情報が入ってこない。もし河に何かあった場合河辺に村を築いているカンダチ族も無事では済まないはずだが、カンダチ族が山の民からそういう情報を仕入れられる機会はない。カンダチ族では備えができない。
交流がないというのは、安全に生きていくために事欠く、とても恐ろしいことなのだ。
「――近々、マオキの村に帰れないだろうか」
男がすぐさま「無茶言うな」と言った。
「あんたは人質として来てるんだ、理由もなく返すわけにはいかない。俺たちだって生活がかかってる、山から貢ぎ物が来なけりゃあ女こどもが飢える」
「それは分かっている、一時的に、ほんの少しの間話をしに行くだけでも、と思って――」
「やめとけ。山の民にカンダチ族がそんな緩い連中だと思われたらたまらねえ」
苦労するのはお前たちの方だと、言うか言うまいか悩んだ。
不意に少女の声がした。
「ノジカーっ!」
振り向くと、カンダチの娘たちが慌てた様子でこちらに駆け寄ってきていた。
「どうした?」
「たいへん! すぐに帰ってきて」
「何かあったのか?」
「アラクマが呼んでる」
「でも周りには余計なことは言うなって、広めるなって言われたの」
「いいから、いいから早く!」
ノジカは男に「すまない、またな」と言って駆け出した。男は黙って見送ってくれた。
最初、何が起こったのか分からなかった。理解することを頭が拒否していた。
族長の屋敷の中、数名の女たちに囲まれて、一人の少女がうつむいている。大事そうに布袋を抱えて、顔の脇の黒髪で表情を隠し、ひとり縮こまっている。
ひとが増えたことに気づいて、少女が顔を上げた。
大きな黒目がちの瞳、小さな赤い唇、雪のように白い肌の美しい少女だった。
「テフ!?」
ノジカの姿を見て、その花のかんばせに笑みを湛えた。
「姉さま!」
彼女はすぐに駆け寄ってきた。女たちを肩で押し退けると、布袋を抱き締めたままノジカに体当たりしてきた。
ノジカは混乱した。
テフはマオキの村で兄たちと暮らしているはずだ。一人では山の民の他部族の村にすら行ったことがない。こんなところまで来るはずがない。
「姉さま、会いたかったですう」
甘い声も甘い香りもノジカの頬に触れる滑らかな黒髪の感触も、何もかもすべてノジカがよく知っている妹のものだ。
「本当にお前の妹なんだな」
一人腕組みをして様子を見守っていたアラクマが言う。困惑しながらも頷く。
「確かに私の妹、マオキの族長イヌヒコの娘のテフだ」
テフの二の腕をつかむ。自分の体から引き剥がす。
「でもどうしてここに」
テフがいつもと変わらぬ機嫌の良さそうな顔で「ええ」と明るい声を出す。
「姉さまに会いたかったからです」
「ふざけるんじゃない。いくらお前でも今マオキ族とカンダチ族がどういう状況なのか分かっているだろう」
たしなめるつもりで、少し強い語調で言った。六つも年下の妹だから、多少のことは大目に見て、さほど厳しいことは言わずに育ててきてしまったが、さすがに今は甘い顔をしていられる状況ではない。
テフは相変わらず笑顔だ。
「父上や兄上はお前がここにいることを知っているのか」
「いえ、知らないと思います。こっそり出てきましたから」
「長老会も?」
「はい」
「ナホ様もか」
「はい、みんな知らないはずです」
こんな状況で父や兄の足を引っ張らせるわけにはいかない。
「すぐに帰りなさい。いい加減おとなになりなさい、みんなに心配させるんじゃない」
テフの表情が曇った。
「そんなこと言わなくてもいいじゃないですか、姉さまはテフに会えて嬉しくないんですか?」
右手を振り上げた。
横に振って、テフの左頬にぶつけた。
ぱん、という、大きな音が出た。
許せなかった。
ノジカは、二度とマオキの村には戻れないと、親兄弟や主君のナホにふたたびまみえることはないと思いながら、マオキ族とナホのために一生カンダチ族で暮らす覚悟を決めてここまでやって来たのだ。
その垣根を、テフが難なく越えようとする。そして、可愛く笑ったり口を尖らせたりして許されようとする。
「いつまでも甘えていられると思うな」
テフはしばらく呆然としていた。いつもはすぐに表情を変え声を上げる彼女らしからぬ、目を大きく開けた状態で斜め下を見ていた。
怒りのせいで次の言葉が出てこない。
だいぶ間を置いてから、テフが正面を向いた。
ノジカは驚いた。
テフが表情を歪めた。眉根を寄せ、口を開けて、顔を真っ赤にした。
大きな涙がぼたぼたとこぼれ落ちた。
テフはよく泣く子だ。少しでも気に食わないことがあると泣く。だが、いつもならこんな泣き方はしない。顔の形を歪めるような真似はしないのだ。声を上げずに器用に涙だけをはらはらと流す。ひとはそのあまりの可憐さにおののいて謝ってしまうものだ。
今のテフの泣き方はそんな可愛らしいものではなかった。肩を上下させ、口を開けて嗚咽を漏らしていた。左腕に袋を抱いたまま右手で目元をこすっている。これでは腫れてしまうだろう。
こんなテフは初めて見たかもしれない。
ノジカだけでなく、その場にいた女たちやアラクマも黙ってテフを見つめていた。
あまりにも激しく幼い泣き方に、彼女は壊れてしまったのではないかと思った。
「みんなそう言います」
洟をすすって言う。
「テフはバカだから、テフはこどもだから、黙っていなさい、あっちに行っていなさい、甘えるんじゃない、ふざけるんじゃない――そんなことばっかり!」
テフは何も考えていないのだと思っていた。
「誰一人テフがいいとは、テフでいいとも、言わないんです。みんなノジカノジカノジカノジカ!」
ノジカは後悔した。
「どうせ今だって誰も心配なんかしてないですよ、みんな邪魔なテフがいなくなって今頃せいせいして落ち着いて仕事ができるんです、テフが山で野垂れ死にしようが海で野垂れ死にしようが気にする人なんて一人もいません……!」
テフは天真爛漫で後ろ向きなことなどひとつも抱かないのだと思い込んでいた。彼女は生まれたその日から今日に至るまで誰からでも可愛がられて幸せに生きていると思い込んでいたのだ。
テフの心は何を言っても傷つかないと思っていた。
そんなわけがない。十三歳の人間の女の子だ。
「でも……、どうして、そんなこと、今……。昨日今日に誰かと喧嘩をしたりした……?」
テフは首を横に振った。
次の時、しゃくり上げながら笑った。
ノジカは、テフはどんなにつらくても笑うのだということを、たった今知った。
「この前、初めて月のものが来たんです。昨日終わりました」
あまりのことに、思わず自分の口元を押さえた。
「これで赤ちゃんが産めると思って――おとなの女として取引に使えるからだになったんだと思って。テフと姉さまを交換してもらえないかと思って……」
「バカ……!」
腕を伸ばした。テフを抱き寄せた。強く、強く抱き締めた。
「お前はそんなこと言わなくていいのに……!」
テフの腕から袋が落ちた。
ひょっとして、これが彼女の持ち物のすべてなのだろうか。たったこれだけの荷物で嫁に来たつもりなのだろうか。誰よりも衣装持ちで肌の手入れも欠かさなかった彼女が、自分で抱えられるだけのものしか持たずにここまで来たのだろうか。
一人でマオキの村を出たことすらないテフだ。それが今回歩いたことのない野を一人でさまよいながら来たのだ。ここまでの道中はどれだけ恐ろしかっただろう。それも、自分自身を人質として、道具として明け渡すためにやって来た。
「だって」
小さな手が、ノジカの着物の背中をつかむ。
「みんなテフより姉さまの方がいいから……! 姉さまがいたらみんなみんな丸く収まるから――だから……!」
「ごめんなテフ。ごめんな」
「ごめんなさい」
泣きじゃくるテフを抱き締めたまま、ノジカは歯を食いしばった。そうでなければ自分も泣いてしまいそうだった。テフを前に泣くわけにはいかなかった。強い姉でいたかった。自分まで泣き喚いてテフを不安がらせたくなかった。
「アラクマ」
だいぶ間を開けてから、口を開いた。
「しばらくこの子をここに置いておけないだろうか。少しの間でいい、落ち着いたらマオキの村に帰すから……、物資が少ないところ、本当に申し訳ないが――ほんのわずかな時間で構わないから、マオキのみんなのいないところでゆっくり自分のことを考えさせたい」
返事はすぐには来なかった。ノジカはそれを、蓄えが少ないからだと思っていた。先の戦でマオキ族から巻き上げた戦利品を冬の間に消費してしまった。テフ一人を食べさせるのにも事欠くと、そう思っていたのだ。
「まずいな」
アラクマは首を横に振った。
「俺も、いてもいいと言ってやりたいが――」
険しい表情で息を吐く。
「もし――万が一、カンダチ族がマオキの姫君を拉致したとでも言われたら、戦のきっかけになりかねない」
血の気が引くのを感じた。ノジカの腕の中で、テフも目を丸く見開いてアラクマの方を振り向いていた。
「すぐに使者を立てる。姫を返すと、こちらには悪意はないと伝えなければ」
彼は断言した。
「今は戦をする余裕がない」
次の時だった。
「アラクマ!」
戸の外から少年の声がした。
「マオキ族からの使者が……!」
最悪の事態だ。
全速力で山の中を駆けた。
辺りはまだ夜が明けきらぬ時間帯だ。幼い頃母に暗い森へ一人で入ってはいけないと言い聞かせられていたことを思い出す。まして今は春、冬眠から覚めた獣が腹を空かせてうろついているかもしれない。
だがノジカは走った。脇目も振らず山の中腹、女神へ舞を奉納するための社を目指した。
暗い森へ入るにはナホが一緒でなければならない。獣に見つかったら火を焚いて追い払うのだ。いつでも空気を燃やせるナホさえいれば人はどんなに深い山の中でも生きることができる。
ナホが光り輝いている限りこの世は明るい。
もうすぐ夜が明ける。ナホが社の拝殿で舞い始めるはずだ。今ならナホと一対一で話ができる。他の山の民に邪魔をされることなくナホ一人の説得に専念できる。
ナホさえ頷けばいい。女神であり女王であるナホが戦を拒んでくれれば回避できる。
やがて建物が見えてきた。巨大な木造建築、その手前の木々に渡された縄――拝殿のある社だ。人間と女神が対話するための空間だ。
縄をくぐり、階をあがり、戸の前に立った。
戸に手を伸ばした。
触れる直前、ノジカはカンダチの村を出て初めてためらいを覚えた。
ナホが舞っているかもしれない。
神聖な、清浄な舞の空間を、自分が侵すのか。
自分は禁忌を犯そうとしているのではないか。カンダチ族に染まって山の習わしを踏みにじろうとしているのではないか。女神の怒りを買わないだろうか。
荒くなった息をあえて細く長く吐く。
女神とはナホだ。ノジカが十七年間仕え守り慈しんできたナホだ。ナホなら自分の言葉が届くはずだ。きっと聞いてくれるはずだ。
胸の前で両手を合わせ、深く首を垂れる。心の中で許しを求めて叫ぶ。
このままでは山の民がカンダチ族を攻め滅ぼす。山のふもとに死の穢れを撒き散らす。穢れるのは山だ。山の女神はきっと嘆くはずだ。自分の行いはけして女神を踏みにじるものではない。
ナホを信じる。
震える手で戸を押した。できる限り音を立てないよう細心の注意を払いながら静かに開けた。
屋内では火がこうこうと燃えていた。春の早朝にもかかわらず空気は暖かくて、冷え切ったノジカの肌を優しく撫でた。
部屋の四隅に据えられた湯灯の火と、宙に連なる炎の玉が、中央で舞うナホの白い頬を照らし出す。
足がゆっくり、だがしっかりと床を踏む。伸びた指の先、笹葉の端が、空間に弧を描く。炎がまたたく。黒い瞳が輝き、黒い髪が揺れる。長い睫毛が白い頬に影を落としている。
幽玄。閑雅。あはれにしてをかし。
ナホは、美しい。
まっすぐ伸びた背、まっすぐ伸びた指先、静かで落ち着いた動作、艶やかな長い髪に滑らかな白い肌、何もかも女神に捧げられるにふさわしい。
見惚れているうちに舞が終わってしまった。ナホが祭壇の前に膝をつき、腰を下ろして、両手をついて深く礼をした。
「かしこみかしこみもうす」
ナホの声が聞こえてきたことで我に返った。
しかし、それにしても――雰囲気が変わった。どことなくたくましくなっている。女物の着物を引っ掛けた肩がしっかりしていて、襟から出る首も前より太くなった気がする。
ナホが振り返った。
ナホの黒い瞳と目が合った。
「――ノジカ?」
ナホが立ち上がった。
「ナホ様」
一歩、ナホに近づいた。
ナホが駆け寄ってきた。
「ノジカ!」
ナホの腕が伸びた。ノジカの腕をつかんだ。ナホの方へ引き寄せた。
想像以上に強い力を感じて驚いた。あまりの強さに言葉が出なかった。
ノジカの胸がナホの胸にぶつかる。ナホの頬にノジカの髪が触れる。
ノジカは動揺した。
自分はもっと冷静な人間だと思い込んでいた。ナホの一番のお側付きとしてナホが何をしても落ち着いてナホをたしなめることができると思っていた。
厚い胸板に抱き留められている。たくましい腕に抱き締められている。背が高くなった。
「ノジカ」
耳元で囁く声も記憶にある声より少しだけ低く甘い。
耳が熱くなる。
薄暗い中でよかった。きっと今自分は耳まで赤くなっている。
大きな手が、ノジカの後頭部を撫でる。
こんなに大きな手、こんなに優しい手つき、ノジカは何も知らない。
「会いたかった」
もうノジカの可愛い小さな甘えん坊の男の子はいない。ここにいるのは妖艶な舞を舞うひとりのおとなの男性だ。
「髪が……伸びた……?」
どう反応したらいいのか分からない。
体が離れた。改めて腕をつかまれ、ナホの腕の長さ分だけ距離を開けた。
ナホの背後で、炎の玉が、揺れている。美しい、山の民を守る、穢れを祓い清める炎だ。
「会いに来てくれたのか?」
ノジカを見つめる黒い瞳は見慣れたナホの目だ。
ナホなのだ。
それでも――どれだけ成長しても、彼はノジカのナホだ。おとなになってしまっただけなのだ。知らない相手ではない。
「はい」
自分でも意識していないうちに頷いていた。ナホの言葉を肯定したいという気持ちだけが動いていた。
頭の中が痺れている。
「ナホ様――」
手を伸ばした。ナホの頬を撫でた。特に意味はない。何となく、ナホに触れたかった。
ナホの左手が持ち上がって、頬を撫でているノジカの右手をつかんだ。
「なんだか、ずいぶん、おとなになられましたね」
ナホが笑った。
「俺、ノジカの目から見て、成長している?」
「はい、驚きました」
「もうおとなとして認めてもらえる?」
ナホの顔が近づいてきた。ノジカは呆けた目でそれを見つめていた。
唇に唇が触れる。柔らかな肉の感触が心地良い。
胸が高鳴っている。
「ノジカ」
ノジカの手を離し、腰に腕をまわした。もう片方の手はノジカの耳のすぐ横を通って後ろで半開きになっていた戸を閉めた。
ノジカの背を、閉め切られた戸に押しつける。後頭部まで戸につく。ノジカは戸に体重をあずけた。
もう一度、唇に唇を寄せられた。
少しの間、ただ重ねていた。互いの唇の感触を唇で感じていた。
唇が離れるかどうかというところで、ナホは止まった。
「ノジカに触りたい」
吐息がかかる。
「ノジカが欲しい。ノジカを俺にくれ」
不思議と不快でない。むしろ気持ちがいい。
ノジカは、頷いた。
「ナホ様」
ナホの肩に手を置いた。
「ノジカはナホ様のものです。ナホ様のものとしてお好きなように扱ってくださいませ」
言いつつ、ノジカは悟った。
自分はこの日のために生まれてきたのだ。この身は彼と悦びを分かち合うためにあり、この心も彼と歓びを分かち合うためにあるのだ。
彼の手がノジカの帯をほどいた。ノジカはされるがまま、ただ彼の顔を見つめていた。
いつかナホの子を産むと約束させられていたことを思い出した。親の決めたことでノジカの意思は介在していなかったが、自分の務めでありさだめであるように思われて拒むことなく受け入れていたものだ。
放っておけばいつかその日が来るとぼんやり捉えていて具体的にいつ何をどうすればいいのかは考えたことがなかった。何となく年上の自分が甘えん坊のナホを導いてやるのだとだけ思っていた。だが実際にその時が来た今、ナホはノジカが何もできなくてもちゃんとしている。心配することなど何もなかった。
約束しておいてよかった、と思った。自分は一族の皆に彼と子をなすような行為をすることを許されている――それが嬉しいと思った。
いじらしく、いとおしい。
たくさんのいつくしみといたみをノジカは受け入れた。
第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
第6章:https://note.com/hizaki2820/n/nf97d356d1791
第7章:https://note.com/hizaki2820/n/n52982e0af092
第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113
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