イヤサカ 第7章
まぶしさに耐え切れず目を開けた。
窓から陽の光が入ってきていた。どうやら太陽の角度が変わったようだ。時が流れている。
どれくらい経ったのだろう。
ナホは慌てて上半身を起こした。
寝ている場合ではない。一刻も早く帰ってやらなければならないことがあるのだ。
今日は山の民にとって記念すべき日となる。山の民が尊厳を取り戻す日となる。
その瞬間に立ち会わなければならない。
だが――春の空気はまだ温まり切らず裸の胸は寒さを感じた。
手元を見下ろす。
ナホが羽織ってきた女王のための着物を下敷きにして、ノジカが一糸まとわぬ姿で横たわっている。ナホの方に背を向け、まぶたを閉ざして安らかな表情をしている。知らぬ間に伸びた髪が床に広がっていた。
もう一度、隣に寝転がった。
ノジカはもっと大柄でたくましい体格をしているものだとばかり思い込んでいた。今ナホが見つめているノジカの肩は予想よりずっと華奢だ。腕や腹も引き締まってはいるがナホより一回り細く感じた。
腕を伸ばして、ノジカのからだを引き寄せた。後ろから強く抱き締めた。
今はきっと自分の腕の方が強い。
胸が締めつけられる。
叫び出したくなる。抱き潰したくなる。だが我慢だ。ノジカを驚かせたくない。
この感情をうまく言い表す言葉は浮かばない。
ノジカの髪に顔を埋めて息を殺した。
ノジカの手が動いた。自分の肩をつかむナホの手を上から包み込んだ。
「ごめん」
やっと出てきた言葉はそれだった。
女王の衣装に、赤いしみがついていた。
「俺、本当は、もっと、ノジカを大事にしたいんだ。何ができるのかは分からないけど……、でも少なくとも、乱暴なことをして、ノジカに、痛い思いをさせたり、怖い思いをさせたり――そういうことは、一生絶対にない――と思っていた」
とうにアラクマのものになったとばかり思い込んでいた。
ノジカを取り戻したいという自分の欲求が恐ろしい独占欲や支配欲に結びついている気がしてきた。衝動的に行動した自分が情けなく思えた。こんなにあさましい自分ではノジカに嫌われるのではないかと――それでもノジカは従者として黙って堪えて自分を受け入れるのではないかと、我慢して何もかも呑み込んで本心を隠すのではないかと、つまり、ノジカと気持ちが通じ合う日は来ないのではないかと――不安が次々と浮かんでくる。
怖いと思った。
ひとと向き合うということは、こんなにも怖いことなのだ。
ノジカは首を横に振った。
「ノジカは乱暴にされたとは思っておりません」
華奢な手が、いつしか剣を持つのに慣れて硬くなったナホの手を、撫でている。
「ただ、ナホ様はよほどノジカに会いたかったんだなと思いました。そんなに慌てなくとも、ノジカはナホ様のものですのに」
恥ずかしくなって唇を引き結んだ。そんなナホの表情が見えているかのようにノジカが笑った。
ノジカが、笑ってくれた。怒っては、いない。
ただそれだけのことにこれほどまでも安心する。
「ナホ様は父や先代がノジカと番って子をつくれと言ったからノジカにべたべたするのだと思っておりました。他の女をあてがっていればその女の方に行ったのではないかと。ノジカがカンダチ族にいる間に他の女と子をつくっているかもしれないとも考えておりました」
「俺が欲しいのはノジカだけだ、俺はノジカの夫になりたいんだ」
そこでノジカが体を反転させた。
ナホの方を向いた。
眉根を寄せ、赤い頬をしている。目尻から床へ涙が伝う。
ナホはノジカが泣くところを初めて見た。これ以上ないほどつらいと、身が引き千切られるように悲しくて悔しいと思った。
けれど涙を流すノジカの目元は優しく、口元にははっきりと笑みを浮かべている。ノジカにとっては、悲しい涙ではないらしい。
「ノジカもナホ様のお傍にいとう存じます」
震える声は何かを堪えているようではあったが、不思議と暗さはない。
「一度は諦めてカンダチの男の嫁になろうと思いましたが、やはりナホ様の最初の子を産むのはノジカでありたいと思うようになりました」
「ノジカ……」
胸の中に温かいものが広がる。ナホまで泣きそうになる。
これが、誰かを想うということなのだ。
しかしそこでナホの感動を止めるかのようにノジカは予想外のことを口にした。
「テフに代わりをさせたくありません。テフのためだけでなく、私自身のためにも」
思わず口をついて出てしまった。
「どうしてここでテフなんだ」
言ってからはっとした。
テフは今カンダチ族の中にいるのだ。
テフがいなくなったのは二日前のことだった。突然の失踪だったのでマオキの村の一同は驚いたが、ふもとの村に立ち寄っていたので足取りはすぐにつかめた。最終的にはカンダチの村に消えたことを確認することができた。
利用しようと言い出したのはシシヒコだ。マオキ族の名誉を挽回するための役に立てるのならあの子も本望だろうと言った。
ナホも承諾した。女王の名においてテフの誘拐を機に挙兵することを辺り一帯にしらしめることを許した。テフを懲らしめてやる気持ちもあった。勝手な行動を取るテフが悪い。どうせ山の民が勝利したらマオキの村に連れ戻すことになるので、説教は再会してからでいい。
ノジカはいつもそういうナホを人の道に戻るよう導いてくれる。
「テフは、テフがどこかで野垂れ死にをしても誰も気にしないのではないか、と言っておりました」
あの能天気なテフがそこまで思い詰めているとは、まったく考えていなかった。
「みんな、私のことばかりで。私と交代して、私を山に帰して自分が人質になれば丸く収まる、と言って。珍しく、本気で泣いておりましたよ」
想像だにしなかったことだ。
「テフはテフでノジカはノジカだ。テフがいなくなって、心配して捜した結果で、こういうことになったというのに。テフをどこかにやろうなんて考えたこともなかった」
「テフに直接そうおっしゃってくだされば、こんなことにはならなかったでしょうね」
今度はノジカが上半身を起こした。着物の上に正座をし、表情を引き締めて言った。
「ナホ様、お願いがあります」
きっと真面目な話だ。睦言の時間は終わりだ。
ナホも上半身を起こした。ノジカと向かい合って正座をした。
「宣戦布告を撤回させてください。カンダチ族と山の民の諍いをお諫めください」
深く息を吐いた。
ノジカの頼みはすべて聞いてやりたかった。わがままを言ったことのないノジカが初めてナホに要望したのだ、何もかも頷いて受け入れて実行してやりたかった。
しかしナホは首を横に振った。
「俺が一人で決められることじゃない。マオキ族の名誉を取り戻すための戦いで、山の民からの貢ぎ物を止めるための戦いで、オグマとアラクマが決着をつけるための戦いだ」
「だからこそです」
ノジカは折れなかった。
「神の火の山の支配者、この山の頂点に立つ女王のナホ様だからこそ。マオキ族に考え直させることも、山の民全体を説得することも、第三者の争いに介入することも。ナホ様だけが、できることです」
「もう決まったことだ、覆すことはできない」
「できます。逃げないでください」
まっすぐナホを見据えていた。逃げることを許さなかった。
「みんな、女王を見ているのです。女王だけが、みんなに見られているのです」
「でも」
拳を握り締めた。
「みんなが見ているのは、女王ナホであって、俺じゃない。俺が今ここで一人で決めたことは――俺個人の言葉は、みんなには届かないんだ」
ノジカは「できます」と繰り返した。
「強くなってくださいナホ様」
「どうやって」
「ノジカは強い男が好きです」
息を詰まらせたナホへ、ノジカが手を伸ばした。ナホの頬を包むようにつかんだ。顔を強引に引き寄せた。唇に唇を押しつけた。
「帰ったらアラクマに交渉してみます」
「何を?」
「人質を交代できないか。さすがにテフはないかと思いますが、山からカンダチ族へ嫁に行ってもいい娘を新しく探して、その娘と替われないか頼んでみます」
目を丸くしたナホに、「ですがすべてが終わってから」と彼女は言った。
「落ち着いたら――ナホ様が落ち着かせることができたら。ノジカは、マオキの村に帰ります」
そして、立ち上がった。
「でも今日のところはカンダチの村に帰ります。山のみんなに私が簡単にカンダチの村を出たり入ったりできるものだと思われてはかないませんからね」
床に放られていた自分の着物を拾い上げる。
「ナホ様なら、私を取り戻すために本気で取り組んでくださると信じて待ちます」
拝殿を出て、しめ縄をくぐって山裾の方を見下ろすと、河を遡ってやってくる船が見えた。
南の丘の真ん中に自らを囮としたマオキの戦士たちが陣取っていて、丘より南西に別の部族の戦士たちが、東側にまた別の部族の戦士たちが控えている。誘い出して、丘まで出てきたところを挟み撃ちにする予定なのだ。上からだと全体の様子が見渡せるが、船からではきっと見えない。
作戦どおりだ。
昨日までのナホだったら、こうして動く山の民の皆を頼もしく思っただろう。山の民は一致団結していると誇らしく思ったことだろう。
それもこれもすべて皆女王の号令だと思ってやっているのだ。
女王の下でひとつである、ということは、そういうことなのだ。
ナホは走った。全力で作戦本部のあるマオキの村に向かった。
女王になら止められるかもしれないのだ。
ナホが族長の館に辿り着いた時、館には山の民の全部族の長が集結していた。
戸を開けて入ってきたナホに視線が集中した。部屋じゅうの視線がナホに突き刺さった。
「止めてくれ」
開口一番ナホはそう言った。
「もう終わりだ。戦士たちを引き揚げてくれ」
部屋の中央に歩み出つつ言う。
「どういう意味ですか」
真ん中で一同を見渡していたシシヒコが、険しい表情で問うてくる。ナホは一度唾を飲み込んでから答えた。
「カンダチ族とはもう戦をしない。和平交渉をする。戦わずにテフを返してもらうよう話して済ませる」
「なぜです? あなたがやると言ったことですよ」
シシヒコがこんな厳しいことをナホに言ったことは過去になかった。この戦は彼にとって族長として初めて臨む戦だ、興奮しているに違いない。
自分もそうだったのだろうか。今朝までの自分も、こんなふうに力を入れて怖い顔をしていたのだろうか。そんな状態で舞っていたのだろうか。女神の前でこんな振る舞いをしていたのだろうか。
よくない。
ナホには人を傷つける覚悟が決められなかった。
けれど今なら言える。
戦のための覚悟などいらない。自分を奮い立たせてまで人を傷つける必要はない。
ノジカのぬくもりを思い出す。
誰もがあんなふうに誰かと睦み合うかもしれないのだ。弱く柔らかい部分を抱えて生きているかもしれないのだ。
取り戻すために必要なことは武器を持って戦うことだけではない。
「申し訳ない」
ナホは間を置かずにそう言った。
「俺が悪かった、頭に血がのぼっていた」
皆の前に立った。
「俺たちに必要なのは対話だ。互いの本当の姿を見るための場を設けることだ。殴り合うことじゃない。ましてや殺し合うことなんて」
全員、シシヒコと同じような表情をしている。
「誰もカンダチの村に行ったことがない、カンダチ族が普段どんな生活をしているのか知らない。確かめてから、考えるべきだ」
それが、ナホが山をくだりながら考えたことのすべてだ。
ナホが知らなかったノジカの姿、ナホが知らなかったテフの考え、そういった物事がナホに与えたこの世で生きるためのことわりだ。
しばらくの間場を沈黙が支配した。誰も動かなかった。視線だけをせわしなく交わし合っていた。ナホは自分の体にも力が入っていくのを感じた。緊張する。喉が渇く。
ややして、ひとりが手を挙げた。
「俺たちはいい。マオキ族がそれで納得できるんだったら――マオキ族がカンダチ族と話をしてケリをつけると言うんだったら」
彼はそう語ってくれた。
「うちの畑は潰れるかもしれないし、うちの戦士たちは殺されるかもしれない。正直なところ、毎年カンダチ族に貢ぎ物をやるのとどっちが得かと言われたら疑問が残るんだ」
ナホは胸を撫で下ろした。全員が完全に戦をやる気になっていたわけではなかったのだ。
「オグマはどうする」
別のひとりが言う。
「オグマはもう出ていったぞ。あいつはカンダチ族の族長と一対一でやる気だ」
ナホは「俺が止める」と言い切った。
「俺が責任をもってどうにかする。オグマにもアラクマと話をさせる」
そして「たぶん」とうつむく。
「俺が思っているアラクマと本当のアラクマにずれがある。話す余地はある気がしてきた」
ところがそこで、またさらに違うひとりが「おい」と鋭い声を投げかけてきた。
「ちょっと待て、うちの部族は川を堰き止めるための大工事に駆り出されたんだぞ? その労役の分はどこで埋め合わせてくれるんだ、カンダチ族からの戦利品でどうにかするっていう話じゃなかったのか」
頭の痛いところだった。もう取り返しのつかないところまで来ている部族もいるのだ。
「そうだ、うちの畑も移動するつもりで新しい土地を開墾している」
「この戦の準備のために剣や鎧を買った連中はどうする?」
「戦士たちに振る舞ってやった飯代を返せ」
そして声を上げた男がナホの前に歩み出てきた。
「あんた、俺たちにここまでさせておいていまさらもとに戻せって言うのか」
ナホは奥歯を噛み締めた。
「何様なんだ。あんたは俺たちに後悔させないと言えるほどご立派な身分なのか?」
着替えて化粧をしてくればよかったのだろうか。その時間を惜しんだ自分の負けなのだろうか。
本物の女王だったらこんなことは言われなかったのだろうか。
拳を握り締める。
それでも、人を傷つけたくない。
この握り拳はどこにも振り下ろされるべきではない。
「後悔、させない」
心の中で、自分自身を、もっと考えろ、と叱咤した。
「何とかする。女王にカンダチ族と話をつけてもらうよう俺が調整する。みんなのはたらきに報いるだけの条件を揃えるから――」
誰かがぽつりと呟いた。
「もう遅い」
その時だった。
ナホは音を聞いた。天上で巨大な桶を引っくり返したような轟音だ。それから続いた音は唸り声にも似ていた。
「始まった」
戦士たちが堰を切ったのだ。
いても立ってもいられなくなってナホは駆け出した。
最前線をどうにかしなければならない。まずは最前線にいるオグマを止めなければならないのだ。
シシヒコが手を伸ばしたが振り切った。
「俺は丘に行く! みんなもそれぞれ自分の部族の戦士たちに声を掛けてくれ!」
それだけを言い放ってナホは館を飛び出した。
ナホは知らなかった。物心がついた頃にはすでに人と川の戦いに一段落がついていたので、川が氾濫するとどれほど恐ろしい事態になるか分かっていなかったのだ。
ただ水が流れるだけではなかった。
上流から押し流されてきた倒木が岸を掻き乱している。大地はえぐられ、またあるところは水が運んできた土砂で大きく盛り上がっている。辺り一面がぬかるんでいて生臭い。川面を埋め尽くしていた船は一隻残らず消えてしまった。
倒木や岩石に挟まれて身動きが取れなくなっている者たちがある。皮膚をえぐられ流血している者もある。いずれも腕や顔に刺青を入れているので、カンダチの戦士たちだ。
口元を押さえた。
この攻撃を、山の民がやったのだ。
恐ろしいことをした。
ナホは一本の倒木に歩み寄った。
倒木の下でひとりの戦士が呻いている。早く手当てをしなければ死んでしまうかもしれない。
幹に手をかけた。
太く重い幹だった。何十年とかけて育った木が一瞬にして薙ぎ倒されここまで押し流されてきたのだ。川はそれだけの破壊力を秘めていたのだ。
持ち上げようとした。
ただでさえ重いのに加えて、足元がぬかるんでいてうまく力が入らない。
これが川の力だ。
手に木の皮のとげが刺さったようだ。複数箇所に小さな痛みを感じる。けれどナホはやめなかった。下敷きになっている男の苦痛に比べれば大したものではないだろう。
「よせ、やめろ」
足元から声がした。ナホは彼に向かって「気にするな、大丈夫だ」と告げた。
すぐに「違う!」と怒鳴られた。
「後ろだ」
言われて振り返った。
また別のカンダチの戦士の男が、ナホに向かって銅の剣を振り上げていた。
木から手を離した。大して持ち上がっていなかったのが不幸中の幸いだ、下敷きになっている男は声を上げたが沈黙することはなかった。
とっさに跳びすさった。濡れていない土の上に乗った。
地面が泥だらけであることが幸いした。剣を振りかざしていた男も滑って前につんのめった。
一瞬間が空いた。
「やめろ! そいつは俺を助けようとしたんだ!」
「お前は黙ってろ!」
男たちが叫ぶ。
「いまさら山の人間を信じられるか!」
これが戦なのだと、ナホは悟った。
だからと言って黙って殺されてやる義理もない。
足場を求めてさらに数歩後退した。濡れた土と乾いた土を交互に踏んだ。
剣を持った男は追い掛けてきた。
踵が何かを踏んだ。
見ると足元に革の鞘で覆われている剣が転がっていた。どこかから流れてきたのだろうか、濡れている。
柄には三角形の波模様が刻まれていた。
マオキ族の剣だ。つまり鉄だ。
剣の握り方なら知っている。この冬の間ずっとオグマとシシヒコに特訓させられてきたのだ。
拾い上げようとした。
地に手を伸ばした瞬間が隙になった。
剣の上に影が落ちた。
顔を上げると、先ほどの男がふたたび剣を振りかざしていた。
殺される。
ナホは手をかざした。
意識していなかった。後から、自分は炎を出そうとしたのだ、ということに気づいた。自分の身を守るために相手を焼こうとした。反射的に、こういう時は火を使うものだと体が判断したのだ。
そうと気づいたのは相手の男が足元の泥に捕らわれて転んでからのことだった。自滅だ。ナホが何かをしたからではない。
炎が出なかった。
自分の手の平を見た。木の皮で傷つき血が滲んではいるが特に変化はない。
しかしいくら見つめても火が噴き上がる感覚が湧かない。
何が起こったのだろう。少し前までは意識して抑えていないと勝手にあちこちが燃えて大変なほどだったのに、なぜ今火の熱を感じないのだろうか。
男が泥まみれになりながらも立ち上がろうとした。
ナホは慌てて地面の剣を手に取った。革の鞘から抜いて構えた。
立ち上がった男が、ナホに向かって突進してきた。
刃に刃を重ねた。
金属音が鳴り響いた。
ぶつかった瞬間腕に強い衝撃を受けた。
だが、ナホはもちこたえた。受け止めたのだ。
押すように動かすと相手の男が引いた。
今のナホの腕力なら戦士の男とも対等に戦える。
今度こそ全身の血がたぎった。
やれる。
「ナホ様!」
男とナホの間に割って入ってくる影があった。
シシヒコだ。
彼の剣はナホが握っている剣よりも長く重そうだというのに、彼は軽々と操ってカンダチの戦士の男の剣にぶつけた。カンダチの戦士の男の剣が弾け跳んだ。
「ここは僕がどうにかします、ナホ様は下がってください」
シシヒコが言う。
ナホはすぐ答えた。
「俺にも戦える、俺が何とか――」
「ナホ様」
シシヒコの目は、真剣そのものだ。
「大局を見失わないでください。ナホ様の目標はどこにあるんですか。こんなところで名もなき戦士と一介の戦士のように戦うことですか」
我に返った。
「マオキの戦士たちにはカンダチの戦士たちを殺さずに捕縛するよう命じてあります、徐々に伝わりつつあるのも確認しました」
相手の男がシシヒコを睨みつつ腰元にくくりつけていた短剣を手に取る。
「他の部族も南側から少しずつまとまりつつあります。それもこれもナホ様がお望みだからです」
シシヒコが剣を構え直した。
「あとはオグマだけです」
ナホは、下がった。
「オグマはまだ堰を切った北側の部族と一緒にいるはずです。ナホ様が止めてください」
「分かった」
シシヒコに背を向けて一歩を踏み出した。
川の上流、堰を造った地点に辿り着いた時、そこにオグマはいなかった。もとの清流の姿が思い出せないほど土砂で汚れた川を、数名の山の民の戦士たちが眺めているだけだった。水がいつもと違う音を立てて流れている不穏さを除けば、呆然としている戦士たちの姿からはある種の平和さえ感じられた。
「戦は終わりだ!」
ナホが声を上げると、戦士たちが振り向いた。
「もう充分だ! カンダチの戦士たちは壊滅状態だ、これ以上やる必要はない! みんなマオキの村に戻ってくれ!」
ある者は川に視線を戻して「川をこのままにしておくわけには」と呟いた。見慣れない濁流に困惑しているのだろう。ナホにも気持ちは分かる。自分たちのせいで、神の火の山を流れる清らかな雪解け水がどこかへ行ってしまった。とんでもないことをした。
別の者が言った。
「分かってる」
その目はどこか遠くを見ている。
「ここまで駆け登ってきたカンダチの戦士たちがみんな川下からの救援要請を受けて引き返した。何が起こっているのかだいたい予想がつく」
そして呟いた。
「分かっていないのはあの双子だけだ」
ナホは彼に駆け寄った。
「オグマとアラクマはここにいたのか」
その場にいた全員が頷いた。
「あの二人も川下へ行ったのか?」
「いや、川沿いにくだってはいったが、カンダチの戦士たちと一緒という感じではなかった。岩の上を跳んで、川の向こう側に移動した」
彼は溜息をついた。
「あの二人はお互いしか見ていない。剣を抜いて、二人で睨み合いながら南西の方へ向かった」
ナホは拳を握り締めつつ「分かった」と告げた。
「俺は二人を追い掛ける。お前らはみんなのところへ戻れ」
「追い掛けるったって――」
「御身はどうされるんだ」
「双子を止めて戦を止める」
「でも――」
「何とかなる。いや、何とかする。だからみんな安心して水の後片付けをしてくれ」
そしてさらに川の上流へ向かって走った。アラクマとオグマはこの濁流の中でも川を渡ったようだが、ナホは万が一滑って頭を打ったり体を冷やして硬くなったりして動けなくなった場合のことを想定した。遠回りになるがもう少し川幅が狭いところを渡ろうと思ったのだ。
一番困るのはナホ自身が動けなくなることだ。自分だけは止まってはいけない。
戦士たちが何かを言いかけた。
「あのひとは――いや、あのお方は――」
川を渡り切り、対岸をくだった。
ナホの息が切れてきた頃、金属音が聞こえてきた。
やっと辿り着いた。
開けた川岸で、顔に刺青を入れた若い男が二人、刃を重ねていた。
伸ばし放題の黒髪、両腕の刺青、筋骨隆々とした体躯、怒りと憎しみに満ちた眼光まで、何もかもが揃いの、同じ人間が二人いるのではないかと思うような二人が向かい合い、打ち合っていた。ただ片方だけが左腕から血を流している。
一瞬どちらがどちらか分からなかった。
二人の顔をよく見る。左目から左頬にかけて刺青を入れている方がオグマのはずだ。右目から右頬にかけて刺青を入れている方がアラクマということになる。
怪我をしているのはアラクマの方だ。
ナホは立ち止まった。
オグマが剣を薙ぐ。傷のある左側を狙う。アラクマが剣を横に構えて防ぐ。そうしてできた隙をついてアラクマの脇腹に蹴りを入れる。
蹴りが決まってもアラクマは動じない。左手で剣を握ったまま右腕を伸ばしてオグマの足を抱え込んだ。そして引いた。オグマは前に倒れた。しかしわざとだろう。右腕を持ち上げてアラクマの首を絞めるように打った。
今度こそアラクマが後ろに倒れた。泥水の中を転がった。だがオグマもその上に倒れた。アラクマが足を離さなかったからだ。
二人とも、顔も着物も泥まみれだ。
オグマが片手に剣を持ったまま上半身を起こす。地べたであおむけになっているアラクマの襟首をつかんで起こそうとする。けれどアラクマの剣がオグマの手首を刺そうとした。オグマはとっさに手を離し、跳び退いた。
オグマもアラクマも立ち上がった。
そこにいるのはナホの知っているオグマではなかった。ナホが知っているオグマは、いつもおとなの男の余裕の笑みを浮かべていて、どこか食えないところのある目をしていた。今はそんな余裕などない。泥まみれの顔に荒い息でアラクマを睨んでいる。
アラクマも同様だった。ナホが最後に見たアラクマは落ち着き払っていて、ナホを斜め上から見下ろしているような男だと記憶していた。あの時の彼からは、こんな姿は想像もつかなかった。泥まみれの顔に荒い息でオグマを睨んでいる。
こんな近くにナホがいるのに二人ともナホには気づかない。
今、双子は、二人だけの世界にいるのだ。
少し距離を置いて、二人は互いに向かって剣を構え合った。
ナホは悩んだ。二人があまりにも真剣で、本気で、熱くて、止めない方がいい気がしてきたのだ。思う存分やらせてやりたい気がしてきた。二人は、戦士としての誇りと男としての意地をかけて戦っている。それを第三者が邪魔をしてはいけない気がした。
ふたたび剣と剣とがぶつかった。同じ得物のはずだったが、先ほどナホがカンダチの戦士と刃を重ねた時とは違う音がした。重い。それでいて速い。二人とも強い。
だからこそ不安になる。
決着はつかないかもしれない。
いつまでもやらせてやりたい気持ちを抑えた。
待ってはいられない。川下の丘が大変なことになっている。早く戦を終わらせてひとびとの手当てをして後片付けをしなければならない。
「オグマ! アラクマ!」
叫んだ。
「一回中断してくれ! 水が荒れて大変なことになっている、もう充分だ! 戦は終わりだ!」
けれど二人とも振り向かなかった。聞こえていないのか、聞こえていても無視しているのか。いずれにせよ二人ともナホには反応しない。
二人の意識をこちらに向けさせたい。
ナホは手をかざした。
二人の狭間に火をつけようと思った。一瞬空気を燃やして二人に危険を感じさせるのだ。
燃えろと強く念じた。
燃えろ、燃えろ、焼けろ、焼けろ、強く、熱く、早く、速く――
出ない。
火がつかない。
燃えない。
自分の手を見る。何も起こらない。
もう一度手をかざす。やはり何も起こらない。
どうして何も出てこないのか分からず、混乱して、何を言うでもなく口を開いた。
なぜだろう。
先ほど襲われた時もとっさに出そうとして出なかったが、今回は意識して出そうと思っているのにもかかわらず出ないので、焦りはさらに強くなった。
ふとよぎったのは、人に向けているからではないか、ということだった。女神はその力で人を焼くことを望んでいないのではないか。母は人のために力を使えと言い続けてきた。やはりこの力で人を傷つけてはいけないのではないか。
自力で双子を止めなければならないのか。
今のナホは丸腰だ。それに、たとえ何か武器があったとしても、あの勢いの双子の間に入ったら無事では済まされない気もする。
「考えろ俺」
頭を掻きむしった。
その直後だ。
大地が、揺れた。
初めは小さな予感のようなものだった。わずかに足元が震えたと思った。
次の時、今まで一度も感じたことのない大きな震動が起こった。
地面が上下左右に揺れる。立っていられなくなる。すぐ傍にある木の幹に手をついたが間に合わない。そのままナホは座り込んだ。
全身が揺さぶられる。吐き気がする。
世界が揺れる。
地鳴りが聞こえる。あちらこちらから何かが崩れる大きな音がする。
こんな衝撃は生まれてから一度も感じたことがない。
歯を食いしばってうつむいた。
何もできない。治まることを祈るしかない。
永遠にも感じられる時が流れた。
鎮まった。
顔を上げた。
アラクマとオグマも、その場に座り込んでいた。二人とも、目を丸くして口を薄く開け、呆けた顔をしている。まるで幼子のようだ。
「何だ、今の」
「地震か……?」
ほっとひと息をついたのも束の間だ。
また、地鳴りが聞こえた。
それから轟音が響いた。
咆哮だ。女神が叫んでいる。
ナホは木々の向こう側を見た。
山頂から雲のようなものが噴き出していた。雲の中で雷が輝いていた。
音が、する。
女神の怒りの声がする。
「まずい」
立ち上がったナホを見て、オグマが「ナホ」と声を掛けてきた。アラクマが「ナホ?」と呟いた。だがナホは答えなかった。ただ山頂を見つめていた。
「神の火の山が噴火する」
「ふんか?」
「神の火の山が火を噴く! 炎の岩と炎の波が襲ってくる」
母の声が聞こえる。
――火の山の神がお怒りになり、炎が荒ぶる時にこそ、この力を使うのだ。
「俺が止めないと」
「止めるったって――」
「どうやって――」
「俺は社に行く。お前らもう喧嘩するなよ」
ナホは、今度は山の社を目指して走り出した。
第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
第6章:https://note.com/hizaki2820/n/nf97d356d1791
第7章:https://note.com/hizaki2820/n/n52982e0af092
第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113
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