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イヤサカ 第8章

 ノジカがその轟音を聞いたのは、山裾、もうすぐ浜の東側に出るという時のことだった。
 すさまじい音がこちらへ向かってくる。聞いたことのない音だ。
 驚いて立ち止まった。
 視界の端に黒い波が見えた。
 大量の丸太や土砂、何か建物だったと思われる木片などを含んで、山の方から波が押し寄せてきた。
 その波はノジカに見たことのない荒ぶる神を連想させた。
 黒い荒ぶる神が河をなぞるように山を駆け下りてくる。木々を薙ぎ倒し、畑を呑み込み、浜へ向かって押し寄せてくる。
 浜の西奥、河口にカンダチの村がある。
 ノジカはその場で立ち尽くした。
 怖いと思った。本能が近づくなと警鐘を鳴らしていた。
 見ていることしかできなかった。
 荒ぶる神は家々を海に押し流した。村の西半分が荒ぶる神に呑み込まれた。
 恐怖のあまり一度その場に座り込んだ。
 何が起こったのか分からなかった。この世の終わりが来たのかと思った。
 カンダチの村が半分になってしまった。
 声が聞こえた。こどもの泣き声だ。
 こどもたちがこちらに向かって走って逃げてくる。
 慰めてやらねば、受け止めてやらねばと、そう思ってノジカは立ち上がった。
 こどもたちがすがりついてきた。ノジカは両腕で一度に三人のこどもを抱き締めた。
 こどもたちの後ろから、女たちが駆け寄ってくる。皆蒼白な顔をしている。両目を見開き、唇を引き結んでいる。
「山の連中は何をしたの」
 ノジカには答えられなかった。分からなかった。ただ山の民が何か恐ろしい手段をもってカンダチ族を滅ぼそうとしていることだけは理解していた。自分の実家がそんなことを先導しているとは思いたくなかった。考えたくない。
 ナホは間に合わなかったのだ。
 ノジカは後悔した。
 自分はナホの情に負けて肝心のことに失敗してしまった。
「すまない」
 女たちは「あんたのせいじゃないよ」と言った。だが自分がもう少ししっかりしていたらと思うと悔しくて、奥歯とともに感情を噛み締めて呑み込む。
 自分がカンダチの村をめちゃくちゃにしてしまったのではないか。
 荒ぶる神はあっと言う間に静かになった。消えてしまった西半分だけでなく、東半分にも倒木を押しつけて家屋を凹ませ、地面という地面を水浸しにして、海に去っていった。
 ノジカは唾を飲み込んだ。
「お母さんたちと一緒に行きなさい」
 そう言いながらこどもたちを離した。
「村を見てくる。みんなは岬に逃げてくれ」

「やめときなよ」 女たちが叫ぶ。
「次が来るかもしれない」
「そうであればなおのこと、だ。村に残っている人たちを連れてくる」
「ノジカ」
「カンダチ族のみんなを救いたい。一人でも多くの人を」
 女たちは「ありがとう」と投げ掛けてからこう言った。
「ほとんどの女は戦士たちの無事を祈って洞窟にこもってる」
「洞窟にいる女たちはきっと無事だ」
「動けない女たちも族長の館に集まってた、族長の館が残っていてくれればなんとかなっているはずだよ」
 ノジカは頷いて「分かった」と答えた。
「族長の館に行く」

 族長の館は村の中でも高台にあった。河からも少し距離がある。
 屋根は濡れていた。壁には別の家屋の破片が衝突していた。
 だが館そのものは倒壊していなかった。
 ノジカは胸を撫で下ろした。
 館から赤子の泣き声が聞こえてくる。中に生きている人間がいるということだ。
 駆け寄り、戸を押し開けようとした。今の衝撃で傾いたのか戸はなかなか開かなかったが、外から誰かが開けようとしていることに気づいたらしい中の人間が内に引いてくれた。
 中には十数人の女とこどもが詰めていた。こどもはほとんどが泣いていたが、ノジカは泣く元気がまだ残っていてよかったと思った。
 戸を開けたのはククイだった。
「おかえりなさい」
 彼女は赤子を負ぶった状態で戸のすぐ傍に立っていた。いつもと変わらぬ笑顔だ。
 ノジカは一度彼女を抱き締め、「無事でよかった」と囁いた。ククイが「あらあら」と笑った。細く長い指がノジカの背中を撫でる。
「大丈夫、大丈夫」
 ククイの声が甘く優しく館の中に伸びる。
「すぐに男たちが帰ってきますよ。あの子たちは誰一人私たちを見捨てやしません」
 どちらからともなく、ノジカとククイが離れる。二人とも部屋の中央の方を向く。
 こどもたちが、泣いている。
「何が起こったんですか」
 言ったのは部屋の隅で膝を抱えていたテフだ。彼女は蒼ざめた頬で、血走った目で、かさついた唇を震わせていた。
「山が何かしたんですか」
「おそらく。川の流れを変えたんだ、そんなことが可能なのか、具体的にどうやったのかは、分からないが」
「テフのせいですか」
 涙はとうに涸れたらしい。大きく見開かれた目はよどみ濁っている。
「テフが余計なことをしたからですか」
 何と声を掛けようか悩んだノジカの脇を、ククイがすり抜けた。
 ククイの手が、テフに伸びた。
 テフのもつれた黒髪を、ククイの指がほぐしていく。
「つらいですね」
 優しい声がまろく響く。
「でも、大丈夫。お姉様が帰ってきてくださいましたからね。みんなみんなこうして戻ってくるといいですね」
 彼女は微笑んでいた。
「たくさん、たくさん、褒めてもらいましょう。こんなに恐ろしいことを、乗り切ったのですから」
 テフの目が潤んだ。あっと言う間に涙でいっぱいになった。
 ククイにすがりついて、テフが声を上げて泣き出した。
 つられてか、部屋のそこかしこからすすり泣く声が聞こえてきた。それまで耐えていた母親たちも泣き出したのだ。
「ククイ」
 ひとりの女が言う。
「ごめんね、ごめんね。あんたをのけ者にして」
 それを皮切りに、女たちは次々と声を上げ出した。
「ほんとは二人を独占できるあんたがうらやましかった」
「あんたは丸く収めようとしてたのに」
「あんたが極力争わないよう調整してるってこと、みんな気がついてたのに」
 ククイは「いいえ」と、それでもなお穏やかな笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
「私は大丈夫です。私は、みんなの言うとおり、ずるがしこくて恐ろしい女ですから」
 誰かが小さく笑った。
「ですが、こういうことを一族の他の人間にするなら、私は怒ります。私だから許されるのだということを、けして忘れないでください」
「ごめんなさい」
 誰かが叫んだ。
「あんたこそ族長の妻にふさわしい女だ、ククイ」
 ククイはそれ以上何も言わなかった。ただ黙ってテフの頭を撫でていた。そのうち歌を歌い始めた。カンダチ族に伝わる子守歌だろうか。こどもたちが泣くのをやめ、ククイの顔を見上げた。
 ノジカは大きく息を吐いた。そして、こんなことになってもククイの背で呑気に眠っている赤子の頬を撫でた。
「とにかく、みんな岬に逃げよう。万が一次が来た時のためだ、今のうちに避難しよう」
「そうですね」
 ノジカの言葉に、ククイが頷く。
「さあ、お立ちなさい。女たちが荷物になる存在ではないことを、男たちに分からせなければなりません」
 その場にいた全員が一斉に立ち上がった。
 ノジカが戸を開けた。まずは腹の大きな妊婦から、それから小さな赤子を抱えた母親が、そしてまだ幼いこどもたちが順番に館を出ていった。
 最後に、ククイがテフの手を引いて外に出た。
 全員が館を出た。
 その時だ。
 異様な地鳴りが聞こえてきた。
 地面が震えた。
 すぐに地震だと気づいた。
 だが、地震くらいよくあることだ。少し耐えていればすぐに収まる――そう思ってノジカは「早く」と皆を急かした。
 直後だった。
 地面が今までになく大きく震動し始めた。
 女もこどもも悲鳴を上げた。
「みんな伏せろ! 体を低くしろ!」
 収まらない。長い。続く。
 すぐ近くで変な音がした。何か複数のものが割れる大きな音だった。
 まずいと思った。
 ククイとテフの背後で、館が崩れていた。
 とっさにククイとテフを抱き締めた。
 ノジカの背中に館の木片が降り注いだ。雨のように次々と降り続いた。吐いてしまうと思うほど背中が衝撃を受けた。
「姉さま」
「ノジカ」
「大丈夫」
 ノジカは笑った。
「大丈夫」
 息が詰まる頃に揺れが収まった。
 ククイとテフを抱く腕から力を抜いた。三人揃ってその場に座り込んだ。
 助かった。
 大きく息を吐いた。
 辺りを見回す。
 残っていた東半分も崩れてしまった。辺りに家屋の断片が飛び散っていた。村のすべてがめちゃくちゃだ。
 でも、人はいない。
 ノジカは「よかった」と呟いた。
「みんな無事だな」
 そこでテフが言った。
「たいへんです」
 また別の、大きな音が、した。
「神の火の山が――」
 女神の咆哮が聞こえた。
 山の方を見た。
 女神は煙を噴き上げていた。女神の周りに雲が湧き起こり雷光を見せていた。
「火の山の神様が、目覚めます」
 それは、山の民すべてが幼い頃から語り聞かされてきた、この世の終わりだ。
 山が炎の波と炎の岩に包まれる。
 ノジカは立ち上がった。
 女王の第一のお側付きとして育ったノジカは知っていた。
「ナホ様に会ってくる」
「ノジカ?」
 ククイが首を傾げた。
「火の山の神が目覚めて大いなる怒りを撒き散らそうとする時は、女王が舞を舞って鎮めるんだ」
 声を張り上げた。
「ナホ様を捜さなければ! ナホ様に女神の怒りを鎮めていただく。私は第一の従者としてナホ様を拝殿にお導きする」
 女たちが騒ぎ出した。
「何が起こるの」
 テフが口を開きかけた。その口をノジカは手でふさいだ。
「お前は山の民の姫としてみんなを避難させなさい。落ち着いてからこのままだとどうなるのか説明するんだ」
 テフが首を縦に振ったので手を離した。
「ノジカ」
 ククイが笑みを消して言う。
「気をつけて」
 ノジカは大きく頷いた。

 体は疲労を訴えていた。背中は焼けたように痛く脚は伸び切ったようにだるい。
 けれどノジカは立ち止まらなかった。自分がそうした瞬間世界が闇に閉ざされる気がしていた。
 世界に明るい炎を燈す手段がたったひとつだけある。
 自分はその炎を守らなければならない。
 木々の向こうにしめ縄が見えてきた。
 社だ。社に辿り着いた。
 縄の下をくぐりながら、走る速度を落とし、大きく息を吐いた。
 拝殿の階に誰かが座っている。
 ノジカは目をまたたかせた。
 膝を抱えて、力なく座り込んでいる。長い黒髪が顔を隠している。
「……ナホ様……?」
 その姿はいつになく小さく弱く頼りなく見えた。今朝がた見たたくましい青年の姿とは違って、ノジカがすがりついたら潰れてしまいそうだった。
 ノジカの声に反応して、ナホが顔を上げた。その頬は蒼ざめていて目は光を失っている。
 頬や肩や足が泥にまみれている。手も血に濡れ、右手の人差し指からは爪が失われていた。
 駆け寄ってひざまずき、ナホの手をつかんだ。
「どこかお怪我でもなさいましたか」
 ナホが首を横に振る。そして「ノジカこそ」と言う。
「背中に血が……! 何かぶつけたのか? 着物が破れている」
 ノジカは安堵して息を吐いた。まだひとの心配をするだけの余力は残っている。心が完全に折れているわけではないのだ。
 左手でナホの右手を握り締めたまま、右腕をナホの背中にまわした。ナホの額に額を寄せ、ゆっくり背中を撫でた。
 ひとりで放り出すには少し早かったようだ。今のナホにはまだ支えが必要なのだ。ノジカが傍にいて支えてやらねばならなかったのだ。
「よく頑張りましたね。ありがとうございます」
 ナホがもう一度、今度はノジカの額に自分の額をこすりつけるようにして、首を横に振った。
「すまなかった。俺が戦を許すと言わなければこんなことにはならなかった」
「いいえ、いいえ。お傍にいなかったノジカが悪いのです。あなた様を本当に思うなら、ノジカはずっとお傍にいるべきだったのです」
「悔しい」
 ナホの声が震える。
「ノジカにそう思わせてしまうことが俺は何よりもつらい。俺はノジカに心配させないようにと思って努力してきたつもりだった」
 ノジカは笑った。
「すみませんでした」
 彼の男としての気持ちだったのだろうかと思うと、彼がいとしくて、いじらしくて、可愛くて、でも少しだけ悲しい。
「でもいいのです、ナホ様。ひとりでおとなになれる人間などおりませんから」
「いや、ノジカはおとなだ。強い。ノジカは自分の力だけでここまでやってきた」
「違います。ノジカが強くいられるのは、ナホ様がいらっしゃればこそ。ナホ様のためを思えばこそ、強くなれるのです」
 言いながら気がついた。自分はカンダチ族のために奔走していたはずだったが、結局のところ優先順位の第一位にナホがいる。ナホに甘えられることに甘えて、すがられることにすがって、今が、ある。
「ノジカは今でもナホ様が何とかしてくださると信じているのです」
 ナホが笑みをつくろうとした。口元を歪めた。けれど目は充血している。唇の端が持ち上がらない。
 結局、彼は笑えなかった。
「俺にはもう舞えない」
 ノジカは目を丸くした。
「それは、どういう――」
「火が出ない」
 体を離して、改めて向き合った。ナホはノジカの顔を見ることなく、自分の両の手の平を見つめていた。
 手が、震えている。
「火を出せなくなった。これじゃ舞えない。女神に俺の声が届かない」
 血の気が引いた。
 ナホの指先をつかんだ。いつの間にか剣だこができて節くれだった手は男らしい。確かに女王には似つかわしくないものだ。だが、今朝はまだ炎の玉を浮かべて舞っていたはずである。朝と今とで大きな違いがあるとは思えない。
「火を燈している間は、女神とひとつだったのに」
 ナホが震えている。
「今じゃ何も感じられない」
 それは、ナホがただの人間になったことを――女神の怒りを鎮められなくなったことを意味していた。
「どうして、今……」
 ノジカの呟きを拾って、ナホが「たぶん」と小声で言う。
「女を知ったから」
 呻き声を漏らす。
「母上の言っていたおとなになるというのはこういうことだったんだ。火を使うには清らかな身でなければならなかったんだ。女神は自分の現身である女王に処女であることを望んでいたんだ」
 嫉妬深い神の火の山の女神は、自分が許していない恋をけして認めないのだ。
 ノジカはその場に座り込んだ。
「お終いだ」
 轟音が鳴り響いた。
 山が、怒りを、訴えている。
 大地を揺るがして怒りを訴えている。
「俺はもう女王でいられない」
 それを聞いた時、ノジカは我に返った。
「いえ、女王です」
 もう一度ナホの手をつかんだ。そして、立ち上がった。
「炎を出せなくても、舞を舞えなくても。私たちが十七年間お守りしお仕えしてきた女王は、ナホ様です」
 ナホが顔を上げた。
「良くも悪くも、ここまでひとびとを導いてきたのは、ナホ様ではないですか。ナホ様は一度だって炎を使ってひとを脅したり故意に傷つけたりはしてこなかった。そうでしょう? それともノジカがいない間に何かしましたか」
「それはない! この力は人の罪穢れを祓うもので人を傷つけるものじゃない!」
「つまり皆火を突きつけられなくてもナホ様に従ってきたということです」
 ノジカは訴えた。
「神には届かなくとも。人間には、届きます」
 少しの間、空白があった。
 ノジカは一度、唾を飲んだ。ナホにこの気持ちが届いていることを祈った。
 どれくらい経った頃だろうか。
 ナホは、頷いた。
 ナホの瞳に光が燈った。
 立ち上がった。
「とにかく、一回マオキの村に帰ろう。俺もずっと戦場にいて村には帰っていないんだ。地震の被害の状況が心配だし、長老会なら女王が火を使えなくなった時の対策を知っているかもしれない」
「そうしましょう。ナホ様の母上様にだって、そのさらに上の母上様にだって、同じことが起こったのでしょうから。きっとどうにかなります」
 見つめ合い、頷き合った。
 そして、手を取って走り出した。

 マオキの村の入り口に立った時だ。
 ナホが立ち止まった。
 村が崩壊しているのを目の当たりにしたからだろう。
 屋根は落ち、柱は折れ、内部が露出している。鶏が逃げ惑い、こどもが泣き喚く。あちらこちらに物が散らばっていて、折れた木が道を塞いでいた。
 また、地震が起こった。これで何度目だろう。最初に感じた揺れよりは小さかったが、あまりにも続いていてノジカは大地が揺れているのか目眩がしているのかだんだん区別がつかなくなってきた。
「地獄か」
 呟いたナホの隣で、ノジカは苦笑した。
「カンダチの村はもっとすごいことになっていますよ」
「カンダチの、村が?」
「河口に村をつくっていたんです。みんな押し流されました」
「河口まで流れたのか」
「そこまでは行かないと思っていましたか」
「丘まで届けばいいと思っていた」
「河下は何もかもなくなりました。残った建物もみんな地震で崩れました。水浸しで、木切れや土砂が積もって、異臭がします。当面は洞窟に住むしかありませんね」
「そんなの――」
「でもまだみんな生きています」
 こどもたちの泣き声が聞こえる。
「今ならまだ、やり直せます。きっと間に合います」
 ナホの手を握り締めたまま、村の中へ入った。ナホはついてきた。ノジカの手を握り返して、確かな足取りで歩みを進めた。
 村の中央まで来ると、村人たちが駆け寄ってきた。
「ナホ様」
 老人たちや女たちがひざまずきぬかずく。
「神の怒りをお鎮めくだされ」
「どうぞ舞ってください。どうぞ神と話をなさってください」
 ナホはノジカの手を離した。自ら進んで皆の前に立った。
「分かっている。でもみんなもまずは避難してくれ、このままだと炎の波が押し寄せてくる、高台に――南の丘に集まってくれ」
 その背を見つめて、ノジカは息を吐いた。やはりナホは頼もしくなった。拝殿の前で縮こまっていた時はどうしようかと思ったが、そこまで弱いわけでもなさそうだ。少しずつでも成長している。何とかなりそうな気がしてきた。
 ナホさえいればマオキの村は何度でもよみがえる。
 ナホは、希望の炎だ。
 ノジカに気づいたらしい、こどもたちが「ノジカねえさま」と叫びながら近づいてきた。ノジカはここでも笑ってこどもたちを抱き締めた。
「逃げることなどしなくても」
 老婆が祈るように両手を合わせる。
「わしがこどもの頃、時の女王は炎を鎮めてくださった」
 ナホは一度動きを止めた。一拍間を置いてから、老婆に歩み寄り、問い掛けた。
「どうやってか、訊いてもいいか」
 老婆は頷いた。
「炎の波が村を襲った時、女王やホカゲの姫様たちは炎の波に直接手を触れなすった。ホカゲの皆様は火傷をしないどころか、炎の波の動きをお止めなすったのだ。神の力があるがゆえのことじゃ、神の力は炎の波と溶け合うと時の女王はおっしゃった」
「その時女王は何歳くらいだったか憶えているか」
「女王は御年すでに三十を数えておいでだったが、生涯未婚でお子をなさず、次の女王を妹君のお子から選ばれた。その時の、姪御の姫君がナホ様のおばあさまじゃ」
「独身だったのか。まずいな」
 また別の老婆が歩み寄ってきた。
「よもやナホ様、お力が使えぬとおっしゃるわけではあるまいな。長老会の許しなく、お力を失われるようなことをなさった、と。そうおっしゃるわけではあるまいな」
 ナホが押し黙る。
「何たること……! 女王がそのように勝手な振る舞いをしたことなどこの何代もなかったことぞ」
「すまん」
 最初の老婆が両手をこすり合わせる。
「さようか。ならば仕方があるまい」
 その声は静かで逆に恐怖を煽った。
「ホカゲ族は滅ぶ時が来たのだ。男児のナホ様の他に神の力を授かった娘が生まれなかったことがすでに滅びの予兆であったのだ」
 周りにいた女たちが泣き出した。
「私たちはどうなってしまうのですか」
 老婆がまぶたを下ろして言う。
「皆ともに神の怒りに呑まれようぞ。山の民は原始に戻り、人は神に祓われ、地は清められるのだ」
「私たちは祓われる穢れなのですか」
「そうじゃ」
 ナホは「そんなことはない」と叫んだ。
「みんな早く南の丘へ――」
 その時だ。
 ひと際大きな音が轟いた。腹をえぐるような、頭を押し潰すような、すさまじい音がした。
 皆が音のした方を見た。
 とうとう時が来たのだ。
 神の火の山が、炎の波を吐き出し始めた。辺りが灰に包まれ、赤い炎を孕んだ黒い波が山をくだり始めた。
 火の山の頂から黒いしぶきが飛んだ。最初は小さく見えたそのしぶきは、山の中腹に降り注いで木々を薙ぎ倒した。あれが言い伝えにある炎の岩なのだ。
 怒り狂った女神が炎の岩を降らして人を焼き殺す。
 この世の終わりが来た。
 不意にノジカは手にぬくもりを感じた。
 ナホが、一瞬だけ、ノジカの手を握った。
 温かかった。
「諦めるな」
 ナホの声が響いた。
「まだ間に合う。みんな移動するんだ」
 その声は落ち着いていて、
「ノジカはみんなを連れて丘へ」
 その目も落ち着いていて、
「ナホ様は」
「俺は行く」
 笑顔、だった。
「みんなのために、何か、してみる。みんなを守りたいから」
 彼は確かに言った。
「もう一度、社に戻ってみる」
 社は山の上の方にある。
 炎の波は山をくだってくる。
「――無茶です」
 今までは確かにナホが炎で火傷をすることはなかった。自分自身で出した炎はもちろん、誰かが火打ち石などでつけた火にも平気で触れることができた。老婆の言うとおり、神の力を宿したこどもだったら炎の波や炎の岩に触れられるのかもしれない。
 先代の女王はナホの炎に触れられなかった。ナホが暴れるたびに火傷をして困っていた。おとなになり神の力を失った者はただびとになるのだ。
「おやめください! 一緒に逃げましょう、もしナホ様に万が一のことがあったら――」
「ノジカがシシヒコたちと一緒にマオキのみんなや山の民のみんなをまとめてくれ」
 ナホは笑っていた。
「たとえ俺が生き残っても、守るべき民がいなくなっていたら、女王がいる意味なんてないんだ」
「それは違います! 私たちは女王さえ生きていれば生きられます!」
「俺のためを思うなら俺の民のために生きてくれ!」
 そして、「ノジカ」と、囁くように言った。
「ノジカは強い男が好きなんだろう? 俺はこの世の終わりから逃げるような弱い男だと思われたくないんだ」

 ノジカとマオキの村人たちが丘に辿り着いた時、丘には部族にかかわらず――山の民とカンダチ族とにかかわらず、戦士たちが身を寄せ合っていた。戦に関係のない周辺の村のひとびとも逃げてきていた。どこの誰かも構わず抱き合っている者もあった。
 そこにナホの姿はなかった。
 大いなる怒りは山を焼き尽くし呑み込んだ。
 灰が降り注ぐ中、みんなが消えゆく村々を見て泣いた。
 ノジカも泣いた。カンダチ族に嫁がされても泣きはしなかったが、今ばかりは泣いた。
 ナホの姿がない。
 炎の波は荒れ狂い、炎の岩は降り注いでいる。
 この世の終焉かと思った。
 しかし――炎の波はいつしか速度を落としていた。ややして山肌のくぼみに引っかかり、溜まり始めた。
 丘の手前で止まった。
 丘まで来ない。
 丘の上にいた全員が助かった。
 だが、ナホは丘にはいないのだ。
 誰かが呟いた。
「きっとナホ様が止めてくださったんだな」
 雨が、降り始めた。灰を含んだ黒い雨はノジカの涙をさらって流れていった。


第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
第6章:https://note.com/hizaki2820/n/nf97d356d1791
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第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113

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