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子供たちの夢。

3月に母が亡くなったのをきっかけに始めたnote。すっかりご無沙汰になってしまった。

あれからもう、8ヶ月が過ぎて、その間、私は無事に出産し、延びに延びた家のリフォームが完成し、慌ただしさと快適さにまみれながら、毎日を過ごしている。

新生児はものすごい早さで成長して乳児となり、2歳児はものすごい勢いで「ヤダ!」を連発する絶賛イヤイヤ期に突入し、そこへきて12歳児は、完成したピカピカの自分の部屋でのゆったりゴロゴロを満喫している(←うらやましい)。

平和だ。

私はというと、やりたい、やらねば、毎日必須のタスクをアレコレ全部並べたら多分50くらいあるとして、そのうちの48個が未消化なまま日々を過ごしているような気がして、毎日が飛ぶように過ぎていく。このnoteの記事も、下書きしてから2ヶ月が経ってしまい、なぜこのタイトルをつけたのかが、全く思い出せない。

平和な毎日は、大人の「時間と心の余裕」というものをこそげとっていくことで成り立っているのだろうか。

それでも平和ならいいか。


リフォームを経て、私は夢のように快適なキッチンを手に入れた。それは、ある人にとっては当たり前の設備かもしれず、またある人にとっては興味のないことかもしれない。

快適なキッチンが欲しいという私の夢は、結婚3年目にして叶った。

夢は現実になる。

12歳児の「大きくなったら何になる?」は、「お父さんの仕事を手伝えるようになる」こと(学校で配られたプリントに書いてあった)。果たしてそれが「夢」なのかは分からない。

2歳児のそれは、「アンパンマンになる」ことだ。

いつからか人は、非現実的な願いを「夢」と呼んで、区別してしまうようになる。

「将来の夢」は絵空事ではない。

ただ、現実と乖離している距離を縮めることができるかどうかで、夢が現実になるかが決まっていくのだと思う。

いま世の中で『鬼滅の刃』なるものが流行している。私も相方も、流行りには特に乗らないタイプなので、全く興味がなかった。しかし、アニメ化や映画化などで、描写が残酷だ、子供には刺激が強すぎる、などの批判が目につくようになり、小学生の子供が触れて良いものかと考えていたところ、ネットで見つけた「子供に伝えたい言葉が詰まっている作品」という評価を信じて、Kindle版をダウンロードした。

そして読んでみた。

刊行中の連載漫画を読んだのは、数十年ぶりかもしれない。

そして思った。


おもしろい。


子供に伝えたい、というよりは大人が掴み取りたい言葉に溢れていたと思う。

確かに主人公たちは幼い。それゆえにノビシロがある。何より、身体的能力の獲得は25歳までの発達が大きな鍵となる。

まぁそんな現実的な見解はさておき。

漫画であろうがなかろうが、「失ったもの」は取り戻すことはできないし、「なりたい自分」に近づく努力をしなければ一生たどり着くことはできない、という、至ってシンプルかつものすごく当たり前なことが、エンターテインメントとして描かれている。

夢をつかんだ人を前に「アイツと自分は違う」という線を引いて足りない自分を肯定した瞬間、人は叶えたかった将来を「現実にならない夢物語」と置き換えていく。

もし、

例えば、だけど。

夢を夢のままにせずに、何か近づく努力をし続けた場合、その夢は失われることなく、形を変えて行くのではないかと。あの時の夢はこうだったけど、今はこれを目指している、とか。それを逃げていると捉えてしまえばそれまでなんだけど、そういうことを言いたいんじゃなく。「変化していく幾つもの夢に向かって進んでいける自分」こそが夢を掴みとれるのではないだろうか。都合のいい置き換えではなく、後悔なく生きるために。

『鬼滅の刃』で感じる心地良さは、「失っても奪われても、その瞬間に自分が最大限できることに全力を尽くす」ことを葛藤しながら掴みとっていく登場人物たちの潔さに心が反応するからだと思えた。たとえその一瞬先に死が待っていても。

私が母親を看取ったときに感じたのも同じようなことだったように思う。当たり前に生活していた日々が突然奪われていき、生と死の葛藤の中で、悪い方に思考が奪われそうになる時があっても、今やれることをひたすらにやる、それだけに目を向けて過ごす時間が、どれだけ難しく、そしてどれだけ自分を奮い立たせてくれたか。母も同じだったと思う。

あの時叶えられなかった夢にいつまでもしがみつくのではなく、夢を追っていたら、それまで気づけなかったいくつもの幸せな瞬間に気がつけたこと。その数の多さこそが、夢を追い続ける人たちの心を支えている気がする。

子供たちにとっての夢は、これから何度も形を変えていくだろう。父の手伝いをしたい息子も、簡単ではない仕事を目の当たりにしたら何を思うだろう。アンパンマンになりたい娘も、アンパンは顔をちぎらなくても与えられるし、人助けはアンパン以外でもできる、そんなことに気づく前に、プリキュアになりたいと言い出すだろう。

いいよいいよ。それでいいよ。

何でもいいから、夢は絵空事ではなく、自分を奮い立たせて前に進むための力になればいい。

夢と距離をおいて、過去を懐かしむように思い起こしてる暇があったら、いますぐにやれることをやれ、と言えるくらい、私もいつでも夢を追いかけていきたい。

手を伸ばせば掴めるほど些細な夢も、叶えるには今すぐ努力を重ねなきゃならない大きな夢も、たくさんあれば尚更良い。

もし叶えられずに命が尽きたとしても、想いはつながっていく、それこそが永遠だと、鬼滅の刃で言ってたよ。


私も思う。

母が死んだ後に生まれてきてくれた命を、「母に見せたかった」と嘆くよりも「母に見せたいほどかわいい子を大切に育てる」と思えることが幸せだなと。

子供たちがこれから大きくなって何をどう感じていきていくかは分からないけど、心配したりアドバイスをしたりしながらも、いつでもその夢を応援して後押しできる親でありたい。

母が私にそうしてくれたように。



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