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あの人が薄くなって、夏が濃くなった。


私に手紙を書いてほしい、と彼女は言った。

最後に手紙を書いたのは数ヶ月前、ここではない遠い場所。
こっそりと忍ばせた小さな封筒。


久しぶりに出たベランダは、少し湿った匂いがした。

Chet Bakerのトランペットが部屋から漏れて、空の表情が少しだけ揺れる。
私はしばらく煙草を吸っていない。お酒だって飲んでない。歌の一つも歌っていない。
興味があることといえば良質な映画と他人の痛みくらいで、てきとうな音楽を聴きながら明日の天気について考える日々だ。
そして今のところ、それは大して悪いものではない。

私が頑張っているようなつもりになっているあれこれは、きっと痺れた足でアクセルを踏んでいたあの日々と何の変わりもない。
私はただ前を見ていた。
隣のあの人がどんな顔をしてるかなんて、知りたくなかった。

今日も本を開く。
19世紀初めに開通したエリー運河が、発展途上にあった当時のアメリカの経済にどれほど大きな影響を与えたのかについて。そして蒸気機関の実用化や大陸横断鉄道の建設がアメリカのさらなる好景気を呼び、物の流通は何倍にも膨れ上がり、人々は何倍もの早さで移動するようになった。
私はロバについて思う。
あのロバはどこへいったんだろう。
ロバに引かれて乾燥した土地や緩やかな運河をゆっくりと進んだ、あの時に口ずさんでいたあの歌は、いったいどこへいってしまったんだろう。

今日もラジオを聴きながら散歩をする。
泳ぐこともできずカメラに触れたこともないまま水中カメラマンを目指したその人は、後に幾度も賞を勝ち取り、何冊もの写真集を出版した。
私は泳ぐこともできるしカメラも持っているけれど、水中カメラマンを目指したことはない。もしかすると、泳ぐことができてカメラも持っているからかもしれない。

今日もいくつか失敗をした。
テーブルのすき間にハチミツを垂らした。
何度やり直しても計算の合わない問題があった。
駆け込んだ郵便局は閉まっていて、散歩の間ずっと行く宛のない封筒を運んだ。

今日もいくつか良いことがあった。
しばらく連絡を取っていなかった人から嬉しいことを言われた。
思い出すと笑ってしまうようなヘンテコな夢を、真剣に見た。
お気に入りの靴下とお気に入りのスニーカーを履いて細い路地をぐんぐんと歩いた。


あの人が薄くなって、夏が濃くなった。
近頃は時間が大事すぎて、いっそ全部台無しにしたくなる。

例えばあの人はとても優しい言葉を放つ。
私が困ってしまう程、呆れてしまう程、そして時に苛立つ程。
傷つけるのはいつだって私の方だった。
そのことに私は立派に傷ついていた。

ふと、いつか見た、深くて大きな谷の景色を思い出した。その風の匂いや、澄んだ予感を。
私は景色や私自身のことばかり見ていて、あの人のことを見ていなかった。
そんな私を、あの人はずっと見ていた。

再び風が吹く。
ベランダの湿った匂い。
閉じかけた本はさっきよりも重く、歩き疲れた身体は昨日よりも軽い。

私に手紙を書いてほしい、と彼女は言った。
明日は、書き出せるような気がする。


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