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小説「ある定年」⑭

 第14話、
 「次の仕事すぐ決まったらいいけど、決まらなかったら雇用保険を受給しながら仕事探しね」
 8月のある晩、妻の千香が夕飯の素麵を啜りながら、話しかけてきた。会社からの通告以来、夕食時は自然と65歳定年後の話に傾く。
「雇用保険って、世間並みに65歳定年で晴れてお役御免になっても、まだもらえるの」
 江上は焼酎のグラスをテーブルに置いて、千香の顔を覗き込んだ。
「健康で働く気があれば、もらえるわよ。いくつになったって」
「つまり65歳定年後も、国民よ働け、と、国にけしかけられているわけだ」
「あなたのが詳しいでしょ。財政が厳しいから、人生100年時代なんて言いだしてるんじゃないの」
「それなら定年引上げを義務化すりゃいいんだろうが。いずれにせよ、年金も思ったより少なかったし、仕事探さなくちゃな」
「だから、体が資本。晩酌もその辺にしておいたら」
 最近は65歳定年後の話が長引き、焼酎のお湯割り一杯だった定量を守れず、継ぎ足しすることが増えている。
「それにね。雇用保険って、65歳を境に扱いが変わるみたいなのよ。わざわざ定年、直前に辞める人もいるのよ」
「わざわざ、定年前にか。それにしてもお前、詳しいな」
「そりゃ、私、仕事で担当しているんだもの」
 現在、妻は足利市内の自動車部品工場でパートタイマーとして働き、総務を担当している。
「そうだったな。それなら早く言ってくれよ」
「定年がいよいよ来月末に迫っているから、そろそろ動いた方がいいと思って持ち出したのよ。ネットでも分かるから調べてみたら」
「ネットで?ハローワークの窓口で聞く方が確かじゃないのか」
「ハローワークで聞ける?」
 妻は眉間にしわを寄せ、疑問を投げかけた。
「そうか。雇用保険は失業状態で求職活動しているから受給できるんだ。仕事を持っている身なのに窓口でいきなり、雇用保険の受給を前提にした話を切り出すのはちょっと勇気がいるな」
グラスを置き、江上は手元のスマホで調べると、
 ーー定年退職するなら64歳11カ月がお得
 などと、興味をそそる見出しが並んでいる。
 ざっと目を通すと、65歳以上と未満では雇用保険の扱いも違い、受給の期間や額も異なるようだった。
「本当だ、こんな裏技があるんだ。初めて知ったよ。夕食終わったら、調べるの手伝ってくれないか」
「自分のことじゃない、しょうがないわね。じゃあ、洗い物を片付けるまで、仕事部屋で待ってて」
 先に居間の隣にある仕事部屋に戻り、江上はパソコンで調べ始めた。いろいろ検索すると、動画サイトで社労士が分かりやすく解説していることが分かった。
 雇用保険を利用するのは、江上にとって2度目。しかも10年前、55歳で、今回の65歳定年とは置かれた環境が異なっていた。不慣れなうえ、普段、目にしない法律や専門用語が混じるだけに文章で理解するのは手間がかかる。
動画では専門家が図表を用いて、難解な用語をかみ砕いて、ゆっくり解説し、疑問点が解消するようだった。ネット時代の恩恵で、スマホを使えばどこでも無料で、専門家の見解に接することができる。
「どう、いろいろ分かるでしょう」
 妻の千香はお盆にウーロン茶の入ったグラスと水羊羹を載せてきた。
「どうも、俺の場合は六十五歳定年の最後まで勤め切った方がよさそうな感じだ」
「そうなの」
 江上は、動画サイトを巻き戻し、最初から再生した。彼は手元のノートにメモを取り、彼女は頷きながら解説に聞き入った。
「なるほど、あなたの言った通りのようね。ちょっと確認しましょう」
 社労士の解説を要約すると、65歳未満で退職した場合、基本手当(失業手当)が90日から150日分、65歳以降になると高年齢求職者給付が30日から50日分給付される。2つを比較すると、給付日数が最大で90日分も違う。給付日数はいずれも雇用期間に入って保険料を支払っていた期間で決まる。
「俺の場合、9年9カ月の10年未満だから、基本手当で90日、高年齢求職者給付で50日分か。単純に考えると誕生日前に辞めた方が得って勘定か」
「待って、そうとも言い切れないんじゃない。何か言ってるわ」
 江上は、動画を少し巻き戻した。
 ーーお得とはいえ、退職時期を決めるのは失業手当の金額だけではありません
 動画の講師の説明に、2人は聞き入った。
「そうか、早く辞めれば給料がその分減るんだ」
「それに、会社と折半だった健康保険料も自己負担分が増えるわ。ちょっと、止めて、また聞き逃しちゃった」
 再度、巻き戻すと、
 ーー高年齢求職者給付金は一括で受け取り……
「おいおい、何度もハローワークに足運ばなくても済むんだ」
「ちょっと黙っていて」
 ーー失業手当は年金と同時に受給できません
「今、もらってる特別支給の老齢厚生年金が支給停止になっちゃうよ」
「だから、黙ってって。最後まできちんと聞いて」
 ーーただし裏技があって……
「ほら、誕生日の前々日までに退職して、65歳以降に求職の申し込みをすれば、65歳以降は失業手当と年金がもらえるじゃない」
「それで次は計算方法か。なんだよ、コマーシャルが入るのか。鬱陶しいなあ」
 10秒ほどのコマーシャルが2本流れて、講師の説明が再度始まった。
 ーー賃金日額から基本手当日額を算出して……
「ちょっと、ややこしいなあ」
「本当、うるさいわね、とにかく黙っていて。私が聞くから、あなたはそっちに座っていて」
 千香にパソコンを譲り、江上はテーブルのウーロン茶を飲んだ。
 家計を40年近くやり繰りしているだけに、数字や計算は妻にかなわない。細かい計算は彼女に任せるに限る。
「本当、よくできた動画だったわ。ちょっと待ってて、計算しちゃうから」
 彼女はメモを見ながら電卓を叩き始めた。ほんの5分程だった。江上が水羊羹の最後のひと匙を口元に運んだ時だった。
「トータル27万8700円ね」
「早いね。それ、どういう計算で弾き出したの」
「あなたの場合、高年齢求職者給付のがいいわ。基本手当日額が5575円で、それに50日分掛けただけよ。失業保険だと90日分、約50万円だけど、定年前に辞めることになるから給料が減り、健康保険料が増えるから損になりそう。それに何度もハローワークに足運ぶのも面倒くさいでしょ、あなたの性格では」
 妻の理路整然とした説明に圧倒され、江上は黙って頷いた。
「健康保険も今の任意継続がいいか、国保にするか、動画サイトで調べておくわ。仕事探しは自分でやってよ」
「分かっているよ」
「ちゃんと聞いてる?私の話。なんなの、スマホに釘付けになって」
「いや、元ハローワーク職員の話が面白くて」
「何て言ってるの」
「優秀な人材にハローワークは不要なんだって」
「どうして?」
「すぐにヘッドハンティングされるからだって」
 千香は笑いをこらえながら、
「じゃ、明日の面接とりあえず頑張るしかないね」
 と、意気消沈気味の夫にエールを送った。
                         第15話に続く。

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