小説「ある定年」⑪
第11話、
暖簾を潜ると、カウンターの一番奥、壁際に加藤は座り、既にグラスのビールを傾けていた。
「暑くてしょうがないから、先にやってたよ」
「悪かったな、わざわざ足利まで来て、待たせちまって。デスクから問い合わせで、電話が長引いて」
「仕事じゃ、しょうがないだろう。それで済んだのかい、デスクの用は」
「ちょっと細かいデスクでさ、単純な確認の電話だった。もう大丈夫だ。これから取材がてら市役所幹部と飲み会がある、と言っておいた」
3日前、元同僚の加藤から電話があった。足利で仕事があり、夜、時間を空けるので酒を飲もうとの誘いだった。春先、市役所で偶然会った際の約束を実行に移すのは、生真面目な彼らしい。
「いい小料理屋じゃないか。このイカと里芋の煮物なんか絶品だな」
お通しは店の名刺だ。素材の吟味、出汁の取り方、味付け、料理人の腕が分かる。通り3丁目裏、小料理屋・小保方は毎晩、常連客で賑わう。
「そりゃ、良かった。舌の肥えた役員様の口に合うのか、気に病んでいたんだ」
「おい、おい、久しぶりの再会だ。今日は皮肉は言いっこなしにしようぜ。まあ、いろいろ話したいこともあるしな」
2人はグラスを合わせた。
「日新さんも大胆なことをやるよ。宇都宮だけじゃなく、全国的に3、4の支社局を対象に閉鎖、大幅な人員削減するらしいな。日新はとうとう全国紙の看板を下ろすなんて週刊誌に騒がれて。江上はそれで、どうなるんだ」
「どうなるもこうなるも、派遣社員だからな、契約打ち切りだ。たまたま半年契約で、9月末の契約切れで会社閉鎖と重なってさ。しかも9月誕生日で65歳、無事、定年退職を迎えるってわけだ」
「そりゃ、うまく重なったな。とりあえず、長い間、お疲れさん」
「加藤に祝ってもらえるとは思ってもみなかったな」
加藤がビール瓶を持つと、江上は飲みかけのビールを飲み干し、加藤の酌を受けた。
「それで、次は決まってんのか」
「いや、前途白紙だ」
「奥さんはまだ働いてんのか。千香さんとは確か2つ違いだったな」
「ああ、子育て期間中を除いて、ずっとパートで働いているよ」
「じゃ、年金と奥さんの収入でどうにかなるだろ」
「今は女房の給料があるからな。でも年金だけじゃ心もとないし、自分が無職で女房に働かせるんじゃ、体裁悪いや。だから仕事探しはしちゃいるんだ」
「そっか、定年後も働く気か。仕事探しはやってるのか」
「一つ試しに受けてみた。秋田で地域おこし協力隊の仕事にありつこうと思ってさ」
「地域おこしか、なるほど、歌麿調査やっていたからな。それにしても秋田か」
怪訝な表情を浮かべる加藤に、江上は経緯を話した。定年後残された人生、束縛から解放されたフリーな立場で、これまでの経験を生かし、社会貢献したいことを。
「そっか、倅もお嬢さんも独立したのか」
加藤は溜息をつくと、
「それじゃ、奥さん次第ってわけか、第2の人生に踏み切れるのは」
と、ビールを飲み干した。
「いや、俺にとっちゃ、第四の人生だ。それに取らぬ狸の皮算用で、合格しなきゃはじまらないよ」
「試験落ちたら、どうだ、もう一回、日栃に戻るか?契約社員ならどうにかなる、即戦力だしな」
「有難いけど、そりゃ、勘弁だ。早期退職で見切り付けた会社に、頭下げて仕事乞いはしたくないな」
「武士は食わねど云々か、そりゃ、まあ、そうだ。江上の性格じゃできないな」
小料理屋・小保方はカウンターに5席、小上がり3部屋のこじんまりしたつくりになっている。常連客がぽつりぽつりと姿を現し、いつの間にか、ほぼ満席状態になっている。
「へい、今日のお造り。メジとカツオのいいのが入ったんで」
店主の小保方は40歳半ばで、糊の効いた割烹着、こざっぱりした角刈りが清潔感を醸し出す。都内の料亭で修業し、2代目を継いだ。お任せで7、8品、カウンターに並び、ほろ酔い気分になって6、7000円で済む。
「ご注文の『姿』です。お注ぎしましょう」
小保方の連れ合い、芳ちゃんが愛想よく、加藤に銚子を傾けた。
「西方の飯沼酒造の純米大吟醸か。酒もいいのを置いてあるわけだ」
「この店は地元のいい酒にこだわっているんだ。足利の酒がありゃいいんだけど、造り酒屋がなくなっちゃたからな」
「うまい肴にいい酒で息抜きができるってわけか、江上は」
加藤は江戸切子のぐい吞みを唇に当て、芳醇な香りと味を確かめるようにゆっくり口に含んだ。今春、市役所で出くわした時もどこか沈んだように見受けられ、その時より頬の辺りが瘦せたように見える。
「ところで、加藤の方はどうなんだ。少し疲れているようだが」
「そんなこともないが、知っての通り、新聞経営は厳しさを増している。販売店や営業サイドから地ダネを入れろ、スクープはどうした、商品価値を挙げろと突き上げられて、編集担当はつらいよ」
「そういや、この間の株主総会で再任されたんだったな、おめでとうを言うの忘れてた。日刊栃木発展のために頑張ってやれ」
「ありがとよ。あと2年か」
「羨ましいよ、役員様で働けて報酬もらえるんだから。俺見ろよ、65歳定年でリセット、またゼロからやり直しだ」
「俺の方こそ羨ましいな、江上が」
「俺が、何で?」
「記者やって、一転、まちおこしに従事して、また記者に舞い戻って。65歳定年で飽き足らず、また挑戦するんだろう。俺なんか、惰性で生きているようで」
「好き勝手にやったのは事実だな。その代わり、生涯賃金は激減したけどな。もっとも定年まで日栃に勤めていたら、擦り切れて、それこそ濡れ場族で女房から熟年離婚を突き付けられてたかもな」
「そんな江上の人生に、千香さんは連れ添ったんだから偉いよ。子供2人もしっかり育ててさ、俺のところなんか……」
「どうした?」
「いや、別に」
「そういや、奥さんはどうした?子供は確か、陽介君だっけか、もう20年以上前になるか、自宅にお邪魔した時、リビングを走り回って、元気良くて人懐こくっていい子だった。みんな元気にやっているんだろう」
「まあ、そうでもないんだけど」
「奥さん、病気でもしたのか。そうだ雅代さんっていったな」
「それがさ……。いや、俺の話はいいだろ。今日は折角のお前の65歳定年祝いなんだから」
加藤は再度、ぐい飲みを掲げ、乾杯を促した。
「また飲もうや、次はお前の自分探しの旅を酒の肴に」
(自分探しか、65歳定年で)
加藤の何気ない一言が、江上の胸に心地よく響いた。
第12話に続く。
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