「ゾンビ化」から甦った看護師:すぎもとあきこ さん(愛称:あっこ)
Hitoテラスは、従来のプロフィールでは伝えきれない、あなたの魅力が伝わる自己紹介をお手伝いするメディアです。そのために内に秘めた思い=インナープロフィールをインタビューによって引き出していきます。
1.キャッチフレーズに込められた想い
2.すぎもとあきこさんの仕事ストーリー
3.すぎもとあきこさんのインナープロフィール
あっこの内に秘めた想い①:“人は尊重されるべき存在である。あなたも、わたしも。”
看護師のあっこにとって、3年間のコロナ禍での体験は、人生で最大のインパクトが起きた出来事であった。
コロナ禍の医療現場はカオス状態。責務を全うし、使命感をもって毎日を過ごしていたが、感染対策や煩雑さが増す業務を前に、これまで大切にしていた患者に寄り添う看護の在り方は崩れていき、現場のナースは疲弊をしていく。疲弊した気持ちはさらに人とのつながりを絶ち、コロナで物理的に離れていくこと以上に、人に対して心を閉ざすようになっていった。
あっこはその時のことを、「楽しいことややりたいことがわからなくなり、生きている意味が見出せなくなり、自分らしさを見失っていき、ゾンビ化していた」と振り返る。「今思えば、それは、気づかないうちに、じわじわと蝕まれていった体験であった」と。
そんな中ある時あっこは、40代のがん患者とかかわる中で強烈な気づきを得る。
「人はいつ死ぬかわからない。なのに、今わたしは、死んだみたいに生きている!」
そこに奮起して退職という行動にでる。
退職後はゆっくり空白の時間をもつことで、心も体も少しずつ回復し、生きる力が甦ってくるのを実感。死んだようになっていたのは、職場や看護師としての役割のために、自分らしさを押し殺しすぎていたからだということに気づく。
人は、「自分自身を尊重し大切にする」ことが、自分を生きることに必要不可欠であることを実感した。
あっこの内に秘めた想い②:“人はつながりの中で自分らしさを見出すことができる”
コロナ禍の期間は、あっこにとって物理的にも心理的にもつながりを遮断せずにはいられない時期であった。しかし、病院を退職し、人と会い、食事をしたり対話をするようになってはじめて「私らしさとは人とのつながりの中で引き出されるのだ」ということに気づく。ひとりで休んでいるだけでは感じられなかった、人と関わることで表れる自分らしさに驚くと共に、自分らしく生きることに人とのつながりが欠かせないということに気づいた。
もうひとつ、思いがけず自分らしさが引き出された特徴的な体験を紹介しよう。
あっこは看護師を退職し、直接ケアを行う領域から、企業の中でのカウンセラーとして関わる歩みをはじめていた。そんな時、思いもよらず、直接ケアに関わりたい!と思わざるを得ない体験をする。
あるとき、温泉施設の中で「お母さん!!」という声が聞こえて、かけよったらおばあさんが倒れていた。あっこは、シャワーで体を温め、足をあげて血流を循環させ、心臓呼吸の確認をし、共に救急車が来るのを一緒に待っていた。倒れたおばあさんに処置を施し、不安を叫ぶ娘さんに声をかけ、看護師として行動していたこの瞬間、無我夢中に動く一方で、「これこそがわたしのやりたいことだ!」としっくりと感じていたという。やっぱり、あっこは、つながりの中で自分らしさを見つけることができる人なのだろう。
あっこの内に秘めた想い③:“人はどんな状態であれ、存在そのものがギフトである”
あっこは、看護師という仕事を通して患者さんからご褒美、すなわちギフトをいただく体験をたくさんしたという。その体験から、「どんな人であれ、どんな状態であれ、人は何かを与えているし、周りの人は受け取っている。人はだれでもその存在そのものがギフト」と考えるようになる。
例えば、
家族の死に直面している患者さんや、意識が戻らない患者さんの家族に、「どんなお母さんでしたか?」「どんなお父さんだったんですか?」と尋ねてみる。
「優しい人で、怒られたことないんですよ」
「自分勝手でいつも困らされてました」
ご家族からポロポロとエピソードが紡がれると、たちまちその方の存在としての光が輝き出すのを目撃したと言う。
目の前の人はまもなく命の尽きる病気の人なんかではなく、ここまでよくよく生きてきたひとりの人なのだと。ありのままのその人の存在としての光を受け取る。このギフトを受け取ったご家族は、大切な人を失う恐れや悲しみを乗り越え、本来の力を取り戻していく。看護師は何もできない無力感や罪悪感からでなく、リスペクトを込めて共にいることができるようになる。そんなお互いの存在としての光を目撃し合う時、ワンネス(全てはひとつであるという感覚)を体験することができる。これは本当にご褒美みたいな時間だった。
まさに、あっこが出会った患者さんからギフトを得た瞬間である。
4.「存在している」というギフトをみんなと受け取りあうプラットホームをつくりたい。
あっこはこのギフトを、多くの人と分かち合いたい、存在としての光を目撃しあいたいと思うようになった。そうして立ち上がったのがHITOTSUNAGARIプロジェクトだ。
ここに集う人々が安心してつながりを持てるプラットホーム。
その一つの形が同じ釜の飯を食べる「ONAKAMAの集い」だ。集う人と一つのテーブルを囲み、おいしいものを一緒に食べるだけ。しかし、そこでの語らいやつながりは、立場や役割を超えてお互いの「存在としてのギフト」を感じあえる時間なのだという。
あっこはこのプロジェクトは自分のゾンビ化を防ぐためだと話す。そして、生きている実感を味わって生きていきたいと願う人たち一緒に、豊かな人生を生きたいと願っているのだ。
5.インタビュアーが感じたこと
あっこのインタビューを通して、人が生きていく上で、シンプル且つとても大切なことに気づかせてもらった。それは「人とつながる尊さ」。
コロナ禍で活動制限された時、人とのつながりの遮断を、あっこだけでなく、みなさんも経験したのではないだろうか。
人と直接会えない、同じ空間を共有できない、画面越しの関係・・・あの時ほど“人とつながることの尊さ”を実感したことはなかったのではないだろうか。
ましてや、あっこが体験した看護師としての出来事は、私たちが想像もできない体験だったはず。だから、あっこ自身、その瞬間は「自分が人とのつながりを遮断している」とは思っていなかったのかもしれない。
これって、よくよく考えてみると、私たちも似たようなことが起きているのかもしれないと思った。その渦の中に入ってしまうと、知らず知らずのうちに自分が自分らしくいられない状態を作りあげてしまうことがある。目の前の出来事に忙殺されている、心のスペースが全くない状態、ネガティブな思考に囚われている状態・・・など。思い返せば、「あれは人とのつながりを遮断してたんだ!」って感じること、ないだろうか?
本当は今こそつながりが必要な時なのに、自分自身だと、その必要性に気づけないのかもしれない。
あっこの話しを聞いていて、「つながり」とは、自分が必要とする時だけに必要なのではなく、日々の中、何気ない日常の中から育んでいくものなのだと気づかされた。
そんなあっこが大切にしている「つながり」を表現する場所が、
“HITOTSUNAGARIプロジェクト”であり、“ONAKAMAの集い”。
あっこに、「このnoteを読んでくれた方に何をお誘いしたいですか?」と尋ねてみた。
うーん・・・・と考えた後、出てきた言葉。
それは「一緒にご飯食べよう~」という言葉だった。
「ご飯を食べる」って日常の当たり前の出来事だけど、人とつながる原点とも言えるのかも。
そのつながりの時間で、その人の“あるがまま”を尊重しあって、その人らしさを認め合えるとしたら・・・
「あったかいな~、私も、今すぐ大阪に飛んでいって、あっこと一緒にご飯食べたい~」ってシンプルに思った。
ピンときた方、ぜひ、すぎもとあきさこさんにコンタクトをとってみて。
きっと、あっこワールドの暖かい時間を体感できるはず。
~あっこにコンタクトをとりたい方はこちらから~
あっこの略歴
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