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【エイリアン(映画)】

 1979年に第一作が公開されたSF映画シリーズ。リドリー・スコット監督、シガニー・ウィーヴァー主演。

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 作中でも「エイリアン」と呼ばれる強靭で凶悪な宇宙生物との戦いを描き、特に第一作は、閉鎖的な宇宙船内でスリリングな攻防が繰り広げられる。SFホラーの古典的名作として名高い。
 また本来「外国人」という意味に過ぎなかった「エイリアン」という単語に、地球外生物(特に侵略的な)の意味を加えたのも本作の影響である。

 本シリーズは、リプリーという勇敢で有能な女性を主人公としている。こうした女性主人公は日本や近年のハリウッドでは珍しくなくても、当時のハリウッド映画としては画期的なものであった。
 そのため本作の成功を「フェミニズムの勝利」と関連付け好意的にみる評も当然多い。

 実際、フェミニストが本作に文句をつける筋合いは全くないように思える。

 しかし、いかなるものにも言い掛かりを見出すのがフェミニズムの習性である。『現代フェミニズム思想辞典』【ミソジニー】(女性嫌悪)の項で、なんと本作をその例として挙げているのである。

精神分析理論は、女性嫌悪はある種の人気のある文化的物語をつくり上げており、評価しているように見える女性の登場人物でさえも、女性嫌悪というテクストを支える意味を持っていると考えられると示唆している。最近の例では、映画「エイリアン」でシガニー・ウィーヴァーを怪物のような母体生物と戦わせている。ここでも、観客は男性も女性も、脅かされた家父長制の象徴的秩序を守るために、この母親像に対する敵意を燃やすよう要求される。クライン派の批評家であれば、このような物語は、実際に男性側に深く根づいている子宮願望さえも隠してしまうと言うだろう。

現代フェミニズム思想辞典』明石書店

 ここで提示されている根拠は、作中に母体生物(エイリアン・クイーン)が登場することである。
 しかし、本作がクイーンとの戦いという「女性嫌悪というテクスト」であり、リプリーがそれを支える存在であるという論は時系列的に成立しない。なぜなら、エイリアン・クイーンは第一作には登場しないからである。

 また、第一作及びその後もメインの敵として登場する「エイリアン」(第2作以降ではゼノモーフという種族名がついている)が、デザインしたH.R.ギーガーは男性器をモチーフに描いたという有名な話も、少なくとも前掲書では何も触れられていない。

 内田樹は『エイリアン・フェミニズム-欲望の表象』という論考の中で、詳細な「逆張り」的考察をしている。

 見落としてはらない徴候は、このときアッシュが彼女を窒息させようとして、口の中に丸めた雑誌をねじ込もうとすることである。乱闘が行われるのは船内の食堂で、押し倒されたリプリーの後ろの壁には『プレイボーイ』風のヌード・ピンナップが貼りめぐらされている。アッシュは手近の男性誌をつかんで、それをリプリーの口にむりやり押し込む。
 丸めた雑誌を口に押し込むというのは、どう考えても窒息死させるために有効な方法ではない。これはむしろ象徴的に解釈されるべきだろう。あらゆる場面で女性らしくふるまうことを忌避しているかに映るリプリーに対して、ここで男性側からの「制裁」が加えられるのだ。
 丸められた男性雑誌は、50年代まではアメリカ男性の誰ひとりとしてその正当性を疑うことのなかった「女性を男性の性的愛玩物として消費する文化」を象徴している。リプリーが映画の中で一貫して踏みにじってきたのがこの時代遅れの性幻想であるとすれば、「男性」によって彼女の「口に挿入された」「男性誌」がその「父権的文化」の報復のかたちであることはほとんど論理的に自明である。(『エイリアン2』においても、《会社》の指示に従わないリプリーを黙らせるために、《会社》の代理人であるバークによって彼女の「口」に「凶器」が挿入される。いずれの場合も《会社》の大がかりな企業戦略を「告発」しようとするリプリーの「口」は擬似的なファルスによって封じられるのだ。)
 もう一つの彼女の女性的徴候は、母船を爆破して脱出するという最後の場面でリプリーが猫を探しに行くという致命的なミスを犯すエピソードに見られる。
 リプリーはここで映画の中でただ一度だけ情緒的弱みを見せる。爆破まで残り数分というせっぱ詰まった状態で、生き残った他の二人の乗組員が脱出に必要な酸素を荷積みするという緊急な作業に携わっている間、彼女は「猫を探している」のだ。
 「猫探し」に手間取ったためにリプリーは仲間二人の救出に間に合わず、脱出用シャトルにエイリアンが乗り込む時間的余裕を与えてしまう。それほどのリスクを冒してまで、リプリーは「猫探し」のために船室をはいまわり、みつけた猫を熱情的に抱き締める。いったいなぜ猫はこの局面でそれほどまでにリプリーを引きつけるのか?仲間と自分自身を危険にさらすどのような価値が猫にはあるのか?
 英語話者ならすぐに気づくことだが、「猫」(pussy)は俗語で女性性器を意味する。「忘れてきた「猫」を探しに戻る」という話型は、それまであえて忌避してきた女性性が、決定的局面に臨んだときにいたって、実は「かけがえのないもの」であったことにリプリーが気づいたことを意味している。「猫」は女性がいかに逃れようと望んでも決して逃れることのできない「セクシュアリティ」の記号である。
 ここでもまた映画はアッシュの暴行と同じメッセージを発信している。
 いかに女性性を拒もうとも、「決定的局面」に至れば、女性は「女であること」からは逃れられない。そして彼女が「女でしかない」ことを暴露するとき、「男の暴力」の前に屈服する他ないのである。

 そして「『父権制社会』の剥き出しの暴力にさらされて戦うヒロインを描くことは、見方を逆にすれば、『父権制社会』に楯突く『生意気な』ヒロインが、父権制的な暴力にひたすら暴行され、凌辱され、その無謀な野心にふさわしい制裁を受ける映像を描くこと」でもあると述べている。

 しかし実際のところ、そもそも本作では、リプリーの役どころは原案では男性であり、女性に変更された後も展開はおろか台詞すらもほぼ変更されていないのである。
 このように、あらゆるものを男女に結び付けて検証をしない精神分析的なやり方は、フェミニズムと非常に相性がいい。
 しかし「そのように見えても実際はそうではないもの」を排除する技術を全く持っていないため、結局はただ思い込みを垂れ流すことになってしまうのである。

 本作のリプリーの役割については、おそらく演じたシガニー・ウィーヴァーの言葉が最も正当な評価であろう。

「いいキャラクターはいいキャラクター。性別なんて関係ない」

参考リンク・資料:

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