「フェラーリ」鑑賞後メモ

 40歳のアダム・ドライバーがわざわざ老けメイクを施されてまで、1957年当時に60代後半であったエンツォ・フェラーリを演じているのは何故なのだろう、というところが最初に気になった。実際の理由はわからないのだけれど、そういったビジュアル的に違和感を醸すような演出によって、エンツォの心が人生における若き日のある時点でピークを迎えたと同時に、そこで時間が止まったままでいるような状態がより際立つような効果を生み出しているように思えた。アヴァンタイトルにおいて白黒の映像でレーサーであった頃の若いエンツォがロードレースに参加している模様が描かれるが、当時の実際の映像と、その質感に寄せたアダム・ドライバーの寄りのショットが交互に映し出されることで、それがあくまで過去の遺物であり、決してその手に戻ることがない幻であることが強調されているように感じられるのも無関係ではないのだろうと考えてしまう。実際、エンディングのショットとも意味合いが重なっている。マイケル・マン監督による今回の「フェラーリ」、そして彼が作家のメグ・ガーディナーとの共著として数年前に出した小説「ヒート2」でもそうなのだけれど、とにかく強者男性であることに対しての自戒の念が作品の核としてあるように感じられるし、そういった男性的な側面によって女性や子供が大変な目に遭ってしまうというところまで重なっている。「ヒート」において描かれた瑞々しい人間同士の根源的な繋がりの裏返しというか、そのようなロマンティックで美しい物語の端で苦しんでいるような人々に対して、今の彼の意識は向いているということなのだろうか。脚本や演出のきめ細やかさなどにおける面白さはかなりあるので観る価値は十分あると思われるが、熟年夫婦、姑、愛人らのピリピリ感だとか、事故シーンの生々しさなど、ハードな印象が強く残った。

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