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最後のオチが「日本の良いところ」になってしまった話

他に何か抱えているトラブルがあると、朝起きて雨が降っているくらいでは落ち込まなくなった。

頭にモヤがかかっているような気がする。

睡眠薬を使うと「寝れるけど朝がキツイ」という話があり、僕もまさしくそうだ

頭にモヤがかかったような状態だと、お腹も空かなくなるので食事を抜くことは少なくない。

今も食事を抜いて書いている。

小学校の頃は「給食の時間が楽しみだ」という人は多いだろうが、僕は人一倍に楽しみだった。

元来より病気がちで学校を休みがちだったので、そもそも「学校に行く」こと自体が僕の中ではイベント化していた。

友達は授業がつまらないからだと思うが、学校に行くことを面倒くさがった。

そんな中、久しぶりに学校に行けるときは、僕は朝からテンションが高かった。

ましてや給食の時間は天国のような時間だった。

地区によって味や献立に差があるらしいが僕の通っていた学校は恐らく良い学校だったと思う。

僕が一番好きなメニューは「コッペパン」だった。

こんなことを言うのはクラスで僕くらいだっただろう。

もちろんカレーやシチューなど王道のメニューも好きだが、コッペパンには敵わない。

クラスの中には「パン嫌い」の子もいたので、残したパンを僕が処理するのが定番化した。

そのうち僕が処理するというより、「僕の机に持ち込まれる」ようになっていった。

コッペパン以外のメニューを持ち込む子もいたので、僕の机が一番豪華な給食になっていた。

とても運の良い小学生だったと思う。

中学校に上がると給食という制度がなくなっていた。

家から弁当なりを作って持ってくるルールだ。

基本的には親御さんが作ることになるのだが、共働き世帯には大変しんどいシステムだ。

高校生になると女子あたりで「自分で作る」という子がチラホラ現れて、分からないが今頃きっと良い奥さんになっている気がする。

僕は中学生から昼食の時間が嫌いになった。

母親が作る弁当が美味しくないからだ。

もっと正確に言うと母親は料理が得意ではなかった。

弁当だけに限った話ではない。

加えて我が家は貧乏だったのでメニュー自体も全然食欲をそそらないものばかりだった。(実際には貧乏な家庭と洗脳されていただけなのだが、詳しくは後日話す)

さすがに中学生にもなると「昼食が一番楽しみ」なんて子は少なかったが、僕はどうしても母親の弁当が好きになれなかった。

高校2年生くらいで母親の入院が始まったので、学校の売店やコンビニで昼食を調達するようになった。

大学生になると学食があったので、学食を使うことが多かった。

そんな感じで母親の弁当を食べれたのは約3年くらいだったので、大人になって思うと「貴重な時間」だったと思う。

社会人になると外食やコンビニがメインになっていき、徐々に食事に対する興味は薄れていった。

最初のころは「お金がかかるが、それなりに美味しい」と思っていたが、慣れてくると何とも思わない。

先輩に良いお店に連れて行ってもらっても、最初の方しか楽しくなかった。

経営者になってから先輩経営者に高級店に連れて行ってもらっても、最初の方しか楽しくなかった。

たぶん僕は舌がバカなんだと思う。

1,000円の牛肉と10,000円の牛肉を目隠しして食べても違いを当てられないだろう。

「同じような味で腹に入るなら安い方で良い」という価値観は割と早い段階で身に付いた。

1つ付け加えると僕の舌がバカというのと、スーパーやコンビニのレベルが上がっているのもあると思う。

昔だとコンビニと聞くと「安っぽいご飯」というイメージだったが、今は一切思わない。

デザートも含めるとスーパーやコンビニのレベルは段違いに美味しくなっている。

缶ビールとコンビニ飯でも十分酔える。

日本は食には一定の評価がある。

食料自給率だの後継ぎ問題など色々と言われているが、人口減少と少子化で「食余り」の日本になっていることを意外と知らない人が多い。

大学生のときコンビニでアルバイトをしていたが、コンビニでは信じられない量の食べ物を毎日捨てている。

パッケージに消費期限が書いてあるが、実際にはもっと早い段階で売り場から撤去している。

逆算するとお店に入荷して廃棄されるまでの時間がとても短い。

僕も廃棄作業をやっていたけど、「これまだ食えるだろ」という気持ちでいっぱいだった。

本当に勿体ないと思う。

「歩留まり」という考え方がある。

生産過程や製造過程において、不良品を除いて残った割合のことを言う。

例えばキュウリを育てているとして、

・腐っているもの
・色見の悪いもの
・曲がりすぎているもの
・小さすぎるもの

などスーパーに並ぶための条件をクリアしていないものは撤去しないといけない。

100本作って10本撤去した場合、歩留まりは90%と表現される。

歩留まりの数字が100%に近づくことは、生産者やメーカーにとっては大事になる。

最初に入った会社は青果メーカーだった。

職種としては営業だったが、センターには足を運ぶし会社全体で商品の状況をデータとしてみることができた。

慣れると何とも思わないが毎日大量の果物や野菜が捨てられた。

また大量に捨てるのにもお金がかかる。

「お金を払って商品を捨てる」という謎のルーチンだ。

諸外国から「飽食の国」と言われて当然だ。

「食品安全法」がある以上、今後は品質管理を緩めるどころか厳しくしていくだろう。

廃棄に回るような食べ物を、食事に困っている世帯に上手く回す方法は誰も思いつかなかったのだろうか。

知人から聞いた面白い居酒屋の話がある。

そこは店主1人しかいない小さな店だが、常連客を中心に経営自体は順調らしい。

知人が1時間くらいしてトイレに行った際に、通路の隙間から厨房が見えたらしい。

よく見ると厨房には何も設備がなく、電子レンジが1台だけあったそう。

後から聞くと、店主が毎日夕方くらいにデパートやスーパーに行って期限が近付いて値引きされた惣菜などを大量に買い占めて、店内で温めて皿に盛りつけて出しているらしい。

良いか悪いかは置いといて、今の時代に合ったやり方だと思う。

僕の地元の話もしておこう。

僕の地元は田舎で農業をメインに生活している世帯が多い。

道を歩いていると色んな場所で無人販売所が置かれている。

農協には持ち込めなかった商品を「訳あり品」として格安で並べている。

さらに意外と買う人が多いのだ。

たまにお金を入れずに持ち帰る人もいるらしいが、「別に良いけどね」と思っている生産者は少なくない。

農家の高齢化問題は「作る」だけでなく「捨てる」ことにも困っているのだ。

もっと言うと無人販売所に出す前に「自分たちの食事用」「仲の良い人にあげる用」にも余った商品を回している。

更に言うと「余った分からとる」のではなく「全体からとる」ことをしている生産者も多い。

例えば100本のキュウリが採れたとして、

「1番美味しい5本を自分用」
「2番目に美味しい5本をお裾分け用」
「普通レベルの80本を農協、スーパー用」
「訳ありレベルの10本を無人販売所」

として使っている。

「スーパーには安くて美味しいものが買える」という考えは間違っていないが、みんなが思っているほど得していない。

正直者がバカを見るとまでは言わないが、「お金を払うと最大限のサービスを受けられる」という考え方は、そろそろ考え直した方が良い。

お金を出すことで100%メリットを得られるのは、高級食材か珍味くらいだ。

量産品については余っているし、ちょっと工夫するとお店で買うより得できる状態にあるのが日本だ。

訳あり品といっても味は遜色ないことが多いのも知っておいた方が良い。

理由は「水」が良いからだ。

世界中で安全かつ美味しい水が得られる国には、20カ国もない。

もちろん日本は含まれているが、多くの国では高いお金を払って輸入したり、汚い水をそのまま使ったりしている。

日本はタダに近い金額で安全で美味しい水を大量に手に入れることができる。

食品にとっては水は命であり、水の品質が良いため美味しい食べ物を提供できるのだ。

最近では円安で食品価格が上がっているが、僕としては「適正価格に戻った」という表現が正しいと思う。

牛丼が280円だったなんて外国人からすると驚きだったはずだ。

「日本はオワコンだから海外移住したい」なんて言っている人は今一度考えた方が良い。

資産だけ海外通貨で持つなど、日本にいながら将来の不安を緩和する方法はたくさんあるのだから。

「灯台下暗し」という言葉のように、近くにあるものに人は気づきにくいのだろう。

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