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琴線に触れることで人間らしさを取り戻す

先日私は、満月を迎えたタイミングでノートとペンを手に取り、いつも通りジャーナリングをしていた。満月だからといって願い事をノートに書くというわけではなく、湧いてきた言葉をただただそのまんま綴るのが私のスタイル。その中に願い事も含まれていたのであれば、それはそれで願ってみようといった軽い具合である。そしてノートにあーでもないこーでもない書きながら、私の中からじわりと浮きあがってきたある言葉がある。

『私は、人の心を揺れ動かしていたい。』

おお、我ながら大きいことを書くではないか。と書きながらもう少し深ぼってみる。一瞬、何だか大それたことを書いたように自分でも思ったけれど、実はものすごく小さい願いだったことに気づく。心を動かす、つまり人に涙溢れる大感動を与えるみたいなことかと思ったのだが、何だか違うらしい。

人が普段押さえ込んでいる感情や、感じないようにしまい込んでしまった感覚、長いこと感じなかったことで感じることを忘れてしまっていた神経。そんなものたちを呼び起こす、いや、起こすほどじゃなくていい。言葉になんてならなくていいから、そこにそんな感覚あったんだよって、なかったことになっていた感覚、忘れないでって。そんな意味で、わたしは人の心を揺れ動かしていたいらしい。

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わたし自身、HSP(繊細さん)の気質を持っている人間として、結構いろんな物事を敏感に感じとっている方だとは思っている。そして今まではその敏感さゆえに不利になることだったり、辛い思いをする事の方が多かったように思うけれど、同時にその感覚を無視することなく感じきったときほど、大きな喜びも、大きな幸せも、深い感動も感じることができているのも事実である。

感じていることのポジティブ/ネガティブは別として、感じることの振れ幅が大きく、かつ感じるセンサーそのものの物差しがものすごく細かいのもとても特徴的だ。

自然の中にある小さな変化を見つけただけで涙が出るほど嬉しくなったり、言葉と言葉の間の空白にものすごい可能性を見つけて心が最高潮に踊ったり、何も違和感に思えないくらいの人の小さなちょっとした仕草や言葉が脳内に引っかかって寝れなくなったり。肩に乗った埃でさえ重く感じてしまう、と言ったら大袈裟かもしれないが、そのくらい繊細に感覚を使うことで得られるメリットの方が、最近は多く感じられるようになってきている。

しかし、その研ぎ澄まされた感覚によってもたらされるデメリットの方が正直辛い。繊細がゆえにその痛みも長引く。だからこそ人は、自分自身を守るためにその感覚に蓋をし、繊細に感じることを諦め、世の中に溢れる強い刺激に慣れていく。

そんな、自分の感覚、感情、神経に蓋をしてしまった人たちの、心の奥に眠る細い細い琴線に触れたい。それらを完全復活させたい訳ではない。麻酔をかけた箇所に触れられた時のような、何か当たった?くらいの微細な感覚。そんな心の振動のキッカケになれたらとても嬉しい。

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じゃあ一体、人の心はどうやって揺れ動かすのか。方法は簡単。わたし自身がわたし自身の心を動かし続けること、である。いや、でしかない。人の心を動かそうとするなんて、おこがましいにも程がある。分かりやすく感動に持っていかれて、あれよと感動してくれる人がどこにいる。分かりやすいメリットばかりのセールストークを並び立てられて簡単に買うやつがどこにいる。その人の止められないくらいの感動話を聞くからこっちも感動させられるし、本人のお気に入りポイントや大好きな想いを心から熱弁されるから感化されて買うわけであって。その人の中に「心が動いた」という事実が、結果として誰かの心を動かすことになってしまう、ただそれだけなのだ。

そしてわたしが心を動かしていたい対象というのは、びっくりするほどのどん底から人生這い上がって大成功を遂げた人の話でも、時代を大きく変えた反逆者やリーダーの話でもない。むしろ、一見感動なんてなさそうな変わり映えのない日常の中に溢れた、小さくも大きな心の揺れなのである。

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毎日を忙しなく生きていると、そういった小さな事象に感動することをついつい忘れてしまう。どれだけ繊細で敏感な感覚を持った繊細さんたちでも、だ。だからこそ、わたし自身がその心を忘れずに、わたしの中に芽生える小さな心の揺れ動きを微細に感じ、わたしらしい表現で綴っていく。満月の日に出てきたわたしの大きく思える願いは、実はとても小さな願いで、丁寧に丁寧に積み重ねていくものなのであった。

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