見出し画像

すごい人になろうとしない

わたしはずっと、すごい人になりたかった。誰かより能力が秀でていて、なぜか注目される存在で、人より結果も出していて、人もたくさん集まってくる、そんな「すごい人」に。優しくて、美しくて、熱い人に。ずっとそう在りたいと思っていたし、そう見えるよう意図して振る舞っていたことは、正直否めない。人生ずっとそうして生きてきたのかもしれない。

そして最近は、その『すごい人』になろうとすることをやめた。見栄を張るのをやめてから(見栄に関することはこの記事に)、人にはすごいもすごくないも、上も下もないことに改めて気づき始めた。

人は何をもって「すごい」と人を崇めるのだろう。今までの男性的な社会では特に、世間的にも経済的にも結果を出し、今の地点まで上がり詰めるために一度どん底まで落ち、そこから這い上がる強さを持ち、人とうまくやるための優れたコミュニケーションを持ち、きっと外見的にもある程度評価されるだけの美しさを持ち合わせる、なんだかそんなことなんじゃないかと思う。

でも、その「すごい」が本当に「すごい」のか、少しずつだけど見栄を捨て始めることができるようになってきたわたしには、なんだか分からなくなってきた。

他人のことをすごいと思えば、それはいわゆる「尊敬」というものに当てはまるものになるし、自分のことをすごいと思えればそれは「自信」というものになるかもしれない。でも、それが行き過ぎると驕り(おごり)になってしまう。ふむ、難しい塩梅だ。

ただ同時に、自分に対しても他人に対しても「すごい人であること」を求めること、期待することは、どちらにとってもプレッシャーになりかねない。わたし自身は間違いなくそうだった。うまくそれを自信に変えれる人はいいのだけれど、それに応えなきゃと自分を偽ってしまったり、強がってしまったり。人から「すごい」と思われることはもちろん、自分で自分を「すごい」としてしまうのも、わたしには相当なダメージになっているみたい。

いただきましたサポートは、優しい循環になるものに使わせていただきます♡