日記 2022/10/16-22

10/16(日)

日常とは形式的なものか、これが日常よね、ああそうだね、で通用する茶飯事か、それとも実際に周辺で起こることすべてか。
事故も祭りも、全部見たことがあるし、同じことが連続して起きればおそらく2度目の感動は1度目よりも小さくて、重ねれば重ねるほど形骸化していくし。
なら日常とは頭の中の全部ということでは。映像はいまやテープじゃないからいくら見ても擦り切れないし、見たもの、考えたもの何もかもが日常化していくのでは。すべてが日常に呑まれるのでは。
子どもはいつも感動している、それは頭の中で回せるテープが少ないから、つまり持っている日常が小さい、だから世界がおもしろい。

10/17(月)

当たり障りのない言い回しを駆使して美辞麗句を並べ立てたらいまの時代というよりもう何十年もずうっと前からそういうのが好ましく思われてこいつ社会性あるやんかという評価のもとなんだかできるやつというふうな見られ方をするようだけれどもそれは必ずと言っていいほど評価の仕合いであってまるで自分は一段も二段も上から俯瞰してあくまで可能性について言及しているだけなのだよと言わんばかりのていでその実おのれの意見などなく断言する勇気がないから客観的な評価コメントに落ち着いてしまうのはどうやらこいつだけではなくほとんどみんなそうでそれは誰にでもできる。

10/18(火)

外国資本の認証機関による外部監査は初めてだからどうなるのか全然判らないし、今はただ次週の本番に向けてせっせと記録の整理とプロセスからの逸脱がないことを確認していくしかないのだが、そもそも馬鹿げたスケジュールでこれまで品質を蔑ろにしてきたくせにこの段になってジタバタしても仕方がないのだ、どうせなら重箱の隅を楊枝でほじくるみたいに膿を出し切ってもらい、開発にフィードバックできるようにこの際もう何も準備しないという選択肢はないのか、会社員にはないわなぁ。

10/19(水)

今日みたいなぼうっと家で作業できる日はいいな。
周りのひとたちの働きぶりも見えないから自分のタスクに集中できる。
好きな音楽をBGMにできるのでずっと心地よい。
ときに小休憩を取って散歩に出かければまるで休日のようだ。
こんなふうに穏やかに仕事ができるならいつまでも働き続けられるだろう。しかし、このためにずいぶん前もって調整したものだ、それをしている間にどれだけ心身をすり減らせただろう、あんなふうでは働き続けるのは困難だ。

10/20(木)

残業も深まり閉店間際のイオンで惣菜コーナーを物色していると、こんな時間もあってかどれも真っ赤な値引きシールが貼られていて、一度美味しいと感じたら考えるのが面倒だからつい同じものを買ってしまう僕は例によって甘辛チキンとじゃがいものやつが食べられたそうに一個だけこちらにアピールしているのに気付いたので俺が連れて帰ってやるよと手を伸ばすとどうやら知らないおじさんもそれを狙っていたようで残念そうに苦笑いを向けられて、このときなぜだかふいにこのおじさんとお互いに本気を出して惣菜の奪い合いがしてみたいと、今日思った。

10/21(金)

当たり前だが、差別は相対的なものだ。
フェミニズムもLGBTQも、ヘイトクライムや移民排斥にしたって、差別というのはぜんぶ集団に対して自分の受け入れられていない、承認されないという相対的な実感、評価によって表出するが、いまの時代、そこには必ず運動が起こる。
一方で、例えば助成を受けられない程度の病気に永続的に向き合うのはマジョリティともマイノリティともいえず、実はこういった境界線上に住んでいるひとの苦しみは誰も救おうとしないし、そもそも見えてもいなければ想像もしていない。
それが山上やジョーカーを生む。彼らは差別主義者ではない。

10/22(土)

将来を不安に思ったり、時間に追われたり、焦ったりするのは、人間が自分のいずれ死ぬことを理解してしまった唯一の生物だから。
僕たちの祖先は狩猟しなくても済むように農耕をして、その日暮らしのサバイブから解放された。
けれど飽き足らず、封建制度による主従関係、そして産業革命と、今度は別のサバイブを求められた。
もし現代のさまざまな問題にケリがついて本当の意味での共生、一部の共有ということが実現されたら、もはや僕たちに焦りはなくなる。それは発展とトレードオフの、人間とゴキブリさえ仲良しの世界。
今は夢見たいな話。

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