日記 2022/10/30-11/05

10/30(日)

昨日に引き続き、今日も仕事。明日の計画審査ができるだけ円滑に進むようにパワポまとめ、成果物説明の論旨確認、審査会後の信頼性保証部門によるドキュメント審査に向けて部下の作成したドキュメントを添削、手直し、見る暇があるのかないのか判然としない上司に念のため確認要請メール、不足ドキュメントの作成にと諸々勤しんだ。
代わりにどこかで午前休でも取ろうかと思うが、一応自分の裁量で調整などできる自由度を感じながらも、暖をとりに南下してきた鳥たちに会う時間はどうも持てそうにない。

10/31(月)

審査する立場であることに優越感を覚えるひとが多いことはどうやら間違いないのだろう、確かに審査会でレビューコメントを残すひとたちはそれなりの立場であったりまたは野心があったりするものだ。皆一様に職責を果たそうと努めてはいるが、それがプロジェクトの開発スケジュールにどんな影響を及ぼすことになるか、生産にこぎつけるのか、コメントする時点では誰も考えてなどいない。
計画は報告で終わらない、というのが僕の考えで、QMS、信頼性、納期、これらをパラレルに検討しつつターゲットを目指しているため、いつも場当たり的な職制コメントに振り回される。
だから僕は世間の一億総ツッコミ時代には与したりしない。

11/01(火)

もちろん例外はあるが、社会人の悩みのほとんどはその根本を辿ればだいたいは人間関係に端を発した不安に行き着くのだろうと思う。そしてそれを解決しようとか対処しようとか考えることはより対人にフォーカスすることになり、視野を狭め、仮に策を講じたところで予想に反してカウンターパンチを浴びるようなことになれば、それこそ本末転倒だろう。やるべきことは悩みを軽減するのではなく、取り除けば良い、その対人を排除すれば良い。ただ物理的に排除してしまうのは合理性に欠けるので、意識から追い出せばいい。僕の尊敬する学者はこの手の諸問題に対して花鳥風月が足りないと言っている。
僕が鳥を追いかけるのはおそらくこうした理由からだと思う。

11/02(水)

とどのつまり、僕たちは社会的であろうとする以上、常に誰かを意識し、誰かに疲れ、誰かに囚われている。なんとなく共有しているつもりのみんながこうあるべきだという形式から自分が逸脱していないことを周りに認識させなければならないという意識になかば脅迫されている。
ひとが鳥を見てかわいいと言ったりする。特に小鳥と言われるサイズの鳥に対して言ったりする。その鳥がミミズやバッタを引きちぎったり、逆に猛禽類に引き千切られたりすることには目を背けて、それは社会性の外に追いやる。なぜなら正当化できないから。けれどそういった本当の自然の世界に目を向ければ、誰が誰に何を思っているのかなど、まったく取るに足らないことだ。
むしろ嫌われてこそ信頼に足るくらいだ。

11/03(木)

果てた。疲れて、果てた。と、頭に浮かぶ。
おや、疲れ果てたという言葉は疲れるという状態が行くところまで行った先のことだとしたら、果てるという言葉には命の終わりを示す意味もあるので、ということはつまり疲れ果てるとは過労死のことではないか。
ならば僕はこうして帰りの電車に揺られて持ち出した文庫本がつまらなくなってきたのでつらつらとこんなことを書いているけども生きてはいるので疲れ果てていない!大丈夫!

11/04(金)

いつか貼り付けた付箋をあたる、過去の自分の感性に触れる行為。
ゾウリムシはクロレラを食べてミドリゾウリムシとなった。クロレラは動けないがゾウリムシは動ける。ゾウリムシは葉緑体を持たないがクロレラは光合成ができる。ゾウリムシはクロレラのために光合成をしに陽光を目指して動くらしい。
なんてミクロで感動する話だろうか。
もしも僕たちの持つミトコンドリアが、植物の持つ葉緑体が生きものだったら、こんな共生のエビデンスは他になかったろう。こんな話をきらめく陽光を乗せて流れる川のように美しく書く学者が好きで仕方ない。

11/05(土)

行ったり来たりでもいいから、自分を振り返ること。
こういうもんだと受け入れることはたやすい。懸命だろう。
抗することは難しい。愚かだろう。
僕を評価できるのは僕だけのはずだ。それを信じるなら、僕は誰のことも評価したくない。
誰もがいまこの瞬間も何かを何かと比較しているだろうし、僕もどうせ手に入れるなら何かのなかで少しでもマシな何かにしたいと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?