日記 2022/08/14-20

08/14(日)

よく生きることは自分の世界を構築することだが、僕にとってはまったく独りで眠りにつくことに等しい気がする。
つまり内省を繰り返し、外の幸福やモラルなど意に介さず、誰にも看取られることなく、宇宙を感じながら死んでいけるような。

08/15(月)

敗戦後77年。
この飽食の時代にあって太らないように食べないことを選択でき、働かないことを選択するひとさえいる。なにより悩む暇がある僕たちは、いまや組織の欺瞞を見抜くことができるだけの情報に手を伸ばせる。
愚かな為政者に与せず、利用されないようにこちらも学び続ければ、きっと大丈夫。

08/16(火)

どんな欲求に対してもまずは自分で抑制もしくは制御しようと試みる。これがうまくいったとき、欲望の波が引いていくのを感じながら、代わりに別の欲求が満たされていくのを感じる。
ちっぽけで面白くもないこんな自分であり続けたいと心から希求するのを感じる。

08/17(水)

瑞々しさを失い、自分そのものが何だか古めかしく感じられて、それを歳を重ねたせいだと、時間が流れたのだと諦観めいた見方をするときがあるが、これはおかしい。
なぜなら夭逝したひとたちが奪われた分まで、僕は歳を重ねながら、さまざまに思いを巡らせて自分の世界をアップデートしているのだから。頭をクリアにしていくだけの経験を日々手に入れているはずなのだから。

08/18(木)

書くという行為は全然アウトプットではあり得ない。
頭にあるいくつかのキーワードから自分が何を考えるのか自分が知ろうとするときにもっとも書くことができていると実感するのだから、おそらくこの行為は思考するプロセスの一部でしかない。
もしアウトプットになってしまっているようなら、それは書けていない。書き起こしただけだろう。会社では書き起こしていればいいのだけど。

08/19(金)

ワークライフバランスを重視すると言えば、どの企業も総じて残業時間やテレワーク継続をアピールするが、ひとには仕事モードのときもあれば趣味モード、勉強モードもあるし、僕にはないが当然ながら家庭人モード、主婦モードもあるだろう。
だのに "ワーク=仕事人" 、"ライフ=それ以外全部" というのはあまりにもアンバランスではないか。
すべての役割は対立するものではなく、少しずつ重なりながら一日を彩るはずなのに。

08/20(土)

僕はいつか独りで山に登りたい。
僕にとって登山とは植村直己やヤマケイ文庫の登攀記録を読む、単に読み物だったけれど、歳をとるにつれ、近代文明が発展するに従い何か神聖なものを求めて山を登っていった人々の気持ちを想像するようになった。
登ることそれ自体を目的とした登山は、ルネサンスの頃から始まったらしい。

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