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4時間目 「社会なるもの以降の自治」

前回のひとりゼミでは、一つのコミュニティが継続的に団結し望ましい変化を実現するためには、そのコミュニティが生きている物質的空間を考えようとしていることを勉強した。コミュニティ——何がどのように構成しているのか考える必要がある——が、それ自身をつなぎとめ、活動し、変化を与えることを、意志を土台にして考えない。人間を脱中心化し、種、機械、モノとの関係を枠組みにして考えなくてはならない。わたしたちが「社会」と呼んで排除してきた存在と繋がりを前提にして、コミュニティとその政治を考えなくてはならない。

「社会なるもの以降の自治」

パパドプロスは私たちに「社会なるもの以降の自治Autonomy after the social」を考えようと提案する。

ここですぐ「以降」に行ってしまわず考えてみる。おそらく、あるコミュニティが「自治」を獲得しようとするときには、まずそのコミュニティは国家に対してその要求を突き付けなくてはならないと思う。自分たちの「力」で自分たちを創り出し、秩序を維持し、資源を管理する。それに対して外部の「力」は介入することはできない、と。それまで同一性が前提となっていた集団の中から、そのコミュニティは外側と内側の差異を備えた、外とは違う別の同一性によって繋がった組織として存在する権利を獲得する。そのとき新たに他者との関係において現実のものと承認された同一性と差異は、自然に対立する社会的なもの=意味の領域を操作することで創り出される。だがこの考えは、極めて人間なるものが中心に留まり続けた発想だ。どの範囲まで自治なのかを考えると、すぐに人間だけの問題ではなくなる——電話番号はそのままかかるのかとか、今ある電線とかパイプとか…自治ってどこまでやんなきゃいけないんだろう。(というか、ここで自治ってのはかなり漠然としている。治外法権がある囲まれた土地なのか、町内会程度なのか…。)

パパドプロスは、社会関係よりも、存在論とインフラストラクチャーは「もっとずっと強力な何か」であると述べる。身体を有した人間と非人間のコミュニティが生きる物質空間に変化を与える力を持つのは、社会関係ではなくて、存在論とインフラストラクチャーなのである、と。社会関係を作るんではなくて、物質空間を創り出すことが、今から私たちが考えるべき自治なのだ。

(「もっとずっと強い」のならば、放っておいてもコミュニティは社会関係ではなくて、物質空間を創り出す事で自治を達成しようとするのではないか?なぜ論じなくてはならないのか?社会関係の方が世に受け入れられているトリックは何なのか?)

パパドプロスはここでいくつかの問いを並べる。

(…)今日における社会運動の政治とは何なのか?もし、既存の政治的権力に照準を定めるものとしてではなく、諸世界を使って実験しているものとして社会運動の行動にアプローチすると、一体何なのか?もし、正義の再配分を目的として既存の諸制度の問題に取り組むものとしてではなく、下から物質的正義を要求する、存在のオルタナティヴな形式を創り出す事として、社会運動の行動をみなすのならば、一体何なのか?そして、もし、社会運動が権力への抵抗に参加するときではなく、生の物質性を用いて実験するときに、これ(存在のオルタナティヴな形式を創り出す事)が可能になるのならば、何なのか?

さらにこのように続ける。

この意味において実験的実践は、猛烈な変化の引き金となり、存在のオルタナティヴで自治のある空間を生み出すような仕方においてエネルギーを駆動する直感、知識、そして政治の形態に関する事である。自治とは、ここでは自律した政治として意味づけられているのであって、個人の独立という近代的ヒューマニストの価値や個人的なるものや私的なるものの隔離としては意味づけられていない。

パパドプロスは、自治を、閉じた個として外部から切り離された状態とは考えない。むしろ彼の考えでは、必要なのは「物質的な相互接続性material interconectedness、実践的組織化practical organizing、日常的共存在everyday co-existence、存在論的同盟の強化the fostering of ontological alliances」である。むしろ繋がりこそが自治を創り出す。そしてその繋がりは人間なるものや社会なるものを超えたポストヒューマンな性格をもっている。

物質で繋がり、それを通じて空間を作りだし、ポストヒューマンな自治が達成される。パパドプロスは、ポストヒューマンな物質的繋がりが本当は社会運動の中に常にあったと考えているように思える。彼はそれを「社会運動の行動の非公式な部分undisclosed part」であると書いていて、取り返すretrievingと書いているところから、わたしはそう感じた。いつもあった——実際それは、社会関係よりも「もっとずっと強力」なのだ——のに、何らかのカラクリがそれを明らかにしてこなかったのかもしれない。では、そのようなポストヒューマンな社会運動をみるには、どうすればいいのか。パパドプロスは、テクノサイエンスをフレームワークに持ち込む事で、それが可能になると考えている。それによって、「超社会運動more-than -social movements」を考えることができるのだ。



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