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3時間目 社会変革は意識改革じゃない?

引き続き、D.パパドプロスの『実験的実践』を読んでみます。

前回はなんと1ページしか進みませんでした!がんばろう!

パパドプロスは、この本をある「つながり」を検討してみる試みと位置付ける。彼には、何と何がつながって見えるのだろうか。一方には、限られた変革しか与えられない運動があり、他方には人間なるものや人間の政治が脱中心化したポストヒューマン的状況がある。この両者がつながっているという。

彼はその例として、2011年にイギリスの黒人コミュニティがネオリベラリズムの渦に対抗して起こした暴動を、カルチュラル・スタディーズの研究者P.ギルロイがどのように分析したのかに言及している。

民営化とイギリス社会の猛烈に新自由主義的な崩壊の渦に引きつけられた多くの黒人コミュニティは断片化していて、しばしばコミュニティ自体を守ったり組織化することができない。(…)変化の懇願は、暴動が終結するとすぐにはたと病んでしまった。黒人コミュニティは1980年代に起こった暴動のようにはイギリス社会を変革しなかった。(2頁)

ここには註6と7があって、その中でギルロイの具体的な分析をまとめている。ギルロイの分析では、既存の社会、政治、メディアの世界のエリートたちは一つの階級を一致団結して作り上げているのに対し、黒人コミュニティはその内部でバラバラの状態であり「あたかも一個の身体として振舞う」ことができていないという。エリートたちの一致団結は、その内部でおしゃべりし、結婚し、同じ場所に通うことで保たれているのだ。

…ここで、こう思った。「これって、どう“例えば”なのか」と。黒人コミュニティには、連帯する意識が形成されていなくて、暴動の後に勢いがなくなったんではないか。それの何が、ポストヒューマン——脱人間中心的な人間と種と機械とモノの関係性の世界——と結びついているのか。

パパドプロスはこの後に、コミュニティとその行動を結びつけておけなかったのには、インフラストラクチャーの不在があると言う(ということは反対に、エリートたちにはこのインフラストラクチャーがあったのだろう)。そして彼は次のように問いかける。

コミュニティの一つの存在論、そして共同的な接続性のインフラストラクチャーは、どのように創造されるのだろうか(2頁)。

ここでも註がある。「接続性は、接続されていようとする、あるいはそれを維持しようとする主体的な意志を必ずしも意味しない。(…)接続性のインフラストラクチャーはコンセンサスも意志に基づく参加もなくしばしば作動する。」ひとりひとりが、つながらないと!と思わなくても「もうつながってしまっている」のは可能であるし、そう思っているのにバラバラということもあるのだろう。コミュニティが一致団結し、それを守り抜き、活動し、その活動を波及させるのを可能にするのは、インフラストラクチャーなのだ。それは、個々の人の連帯感とか意志を必要としない。なるほど、ではそれはどうやって作られるのか、確かに気になる。

そしてここには、唐突に「存在論」という語が出てきている。彼はこの語はここで期待されていないと承知した上で、こう述べている。

(存在論を)ここで私は、共有され、耐久性があり、開かれた、それらのコミュニティによって自律的に居住され得る物質的空間——触知可能でも仮想でもある——と意味づける(2頁)。

「共有され」は何となくわかる。人と人が、それを共有しているのだろうと思う。だが、「耐久性」と「開かれた」とは何なのか。これは保留しておこう。そうした性質を持つ、触知可能でも仮想でもある物質的空間…。物質的空間は、例えば通り、広場、住宅街とか、そういうところのことで合ってるだろうか。まずそういう感じで想像しておこう。インフラストラクチャーと並んで述べられているし。

では、人びとが、言葉、関心を共有し、共に希望を持ったり活動したりし、何らかの変化をもたらそうとする、そういうコミュニティが、いかに存在しているのかというと、物質的空間が問題なんだよということなんだろうか。そうやって考えてみると、だんだんと、人間、人間が人間たろうとする意志、そういうのを中心的に考えるのをやめて、猫、スズメ、チューリップ、土、スマホ、コンセント、スタバ、ウィルス、タンパク質、光などなどの関係をフラットに視野に入れて考える出発点に立つというところに行けそうだ。言ってしまえばこれら関係し合っているのは、何でもモノである。人間のやる気スイッチで政治を考えない。それをはみ出た政治を考える。

またちょっと休憩する。


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