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【ひとりとひとり】的、「個立有援(縁)」とは?

今日のテーマは、【ひとりとひとり】的、「個立有援(縁)」とは? です。

※この「個立有援(縁)」という言葉は当団体のスーパーバイザーでライターの安藤昭一が2019年ごろに使い始めた造語です。

「孤立無援」の反対語

シンプルに「孤立無援」の反対語であると考えれば、言葉の意味自体はご理解いただけると思います。
ちなみに、「孤立無援」をWiktionary(ウィクショナリー)で調べると。

一人ぼっちで助けが無いこと。

と書いてあります。

助ける、助けられるってなんだろう?

だれもが「困っている人がいたら助けましょう」と子どもの頃に、親や先生に言われたことがあると思います。
しかし、私個人としては「助ける」方法を教わった記憶はありません。
その逆で「助けてもらう」方法も、実は教わった記憶がないのです。

それなのに、最近、自助、共助、互助のような言葉が巷では飛び交っており、正直、その実行可能性に低さに、なんとも言えない気持ちになっていました。
決して悪い考えではないと思いますが、

その方法論については、

「ひととつながりましょう」
「助けてと言いましょう」
「助けてあげましょう」
という、

実に表面的なあたりまえのことだけ、で〝実際にどうしたら良いのか〟という点で、提案をされる人は少ないように感じるのです。

提案をされている人も、そもそもコミュニケーションが上手な人が、「私もできるからあなたもできるよ、こうしてね」という視点が多すぎるように感じてしまう。
それができないから、「助ける」ことも「助けてもらう」ことも難しいのにな〜と感じてしまうわけです。

「助けたい」、「助けて」の〝背景〟にあるもの

「なんだか生きづらい」そういう人は、世の中にはたくさんいると思います。
〝なんだか〟が、自分自身でもわからない人も多いのではないでしょうか?
逆に、具体的に困っていることがあって、その解決策として用意された機関や窓口、支援先があるという場合は「助けたい」=「助けて」のバランスは取れているのではないかとも感じています。(満足のいく支援につながるか、本当に助けになるかは別の話ですが)

要は、「助けたい」、「助けて」の〝背景〟にあるものをお互いが理解できているか、ということが最大の「課題」ではないかと思うのです。

「助けてほしいけど、なにを助けてほしいのか分からない人」というのが大半で、「助けたいけど、何に困っているのか分からない」という関係が出来てしまっているのではないかと思うわけです。

ひとそれぞれに抱える「助けて」の〝背景〟にあるものが違うのに、表面的な方法、表面的な提案で何かを改善できるとは思えない。

そのためには自己開示していく、自己開示には、自己理解も必要だと思います。
難しいことかもしれませんが、自分の〝助けて〟欲しい「課題」の部分が見えてくれば、〝助けて〟と言える先の選択肢も必然的に見えてくると思うのです。

もちろん、それは公的な支援でなくても良いのです。
周りの知り合い、友達、家族…etc.

お互いにその「背景」を理解し、「課題解決」するために、それぞれの強み弱みの凸凹を埋めるよなフラットな関係で、自助、共助、互助できるというのが、私たち「ひとりとひとり」的、「個立有援(縁)」の理想です。

そもそもコミュニケーションが上手な人が、「私もできるからあなたもできるよ、こうしてね」という関わり方ではなく、コミュニケーションが上手な人は、苦手な人のコミュニケーションを補うかわりに、別の強みで「私を助けて欲しい」と言える、そういったつながりが必要なのではないかと考えています。

次回は、「個立有援(縁)」の〝個〟についても書いてみようと思います☺️

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