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本当は知っている

記憶に残る中で、私が初めて他人からの言葉で傷ついたのは小学校低学年の時だ。保育園のおままごとでお父さん役やお兄さん役をあてがわれていた私は、小学校に入ると主に男の子たちと遊んだ。その仲の良い男友達らと近所の広場で色鬼だか高鬼だか鬼ごっこの類をしていた時にそれは起こった。私たちが遊んでいるすぐ近くで年上の男の子が2、3人座り込んで話していた。私がその前を通った時にそのうちの1人が言った。「なあなあ、あいつ、女らしいで。あのデブ。」それは明らかに私のことを指していた。その時は遊びに夢中だったし、嫌な気持ちがしたことはわかるが、小学校低学年の私は自分が傷ついたことをよくわかっていなかった。だが、どこの誰が言ったか覚えてすらいないのに、その言葉だけは30年間忘れることはなかった。7歳だか8歳だかの私が初めて傷ついた言葉。


その言葉を受けて小学生の私は自分と友達の体型を比べ出した。太い。明らかに太い。運動会の際、学校側が呼んだ出張カメラマンが撮ってくれた写真写りをチェックする。同じ体操服を着ているのに、足の太さが全然違う。衝撃的だった。こんなに太かったのか。でも、まだ小学生。なぜ自分がみんなより大きいのかわからない。今のような情報社会でもなければ、「ダイエット」という言葉すら聞いたことが無かった。母親がそれを咎めたこともなければ、優しい友達ばかりだったので、例の年上の男の子たち以外から「デブ」と言われたことが無かった。彼らに「デブ」と言われたことで初めて自分が「人より太っている」ということを自覚した。そしてその「デブ」という言葉の前にある「あいつ、女らしいで」の裏に隠された「女に見えないのに(または、「男みたいだけど」)」という嘲笑も。


幼い時に感じた「自分は太っている」という思いは、約30年間、継続して続けている運動や筋トレへのモチベーションになった。そのコンプレックスがこれから「トレーニングジムを立ち上げる」という思いの原点になっている。コンプレックスに注がれるエネルギーはとても強くて重い。ねっとりとしている。そのエネルギーの使い方次第では、本人の心を蝕み、完全に支配し、自分以外の他者や世の中への攻撃性すら持たせる。だが、裏を返せば、それだけ執着できる(集中することができる)ということでもある。世の中はいつでも表裏一体だ。朝の次は夜が来る。白の反対に黒がある。何かを正とすれば何かが悪になる。執着して囚われることに苦しむのではなく、集中しきって徹底的に向き合ってしまえ。どうせ気になって気になって仕方がないのなら、考えることを全肯定してしまえ。自分の手で完全にコントロールできるくらいに掘り下げ、理解し、手綱を握れ。それだけ強烈に強い思いを持っているのなら、多少のことで諦めたり、投げ出したりしないだろう。暗闇を外側から眺めているから怖いのであって、中に入ってしまえば壁に電気のスイッチがあるかもしれない。


苦しい状況に陥った時、本性が露呈する。苦しいことやつらいことを目の前に突きつけられた時、次にとる行動が人間性の現在地だ。気づいていながら、見ないふりをし続けることは、自分の心に小さな誤魔化しを続けることだ。本当の気持ちを知っていながら、誤魔化しや言い訳を続けていると精神が歪んでいく。見えないふりをしている自分を正当化するために外側の世界を攻撃したり、自分の中で作り出した歪みに耐えきれず、他者に機嫌をとってもらおうとする。そんなことをするためにこの世に生まれてきたのではないだろう、と思う。この世に生まれて、幸いにも生きながらえて、楽しみも苦しみも味わうことができる環境を手にしていて、いつまでも自分の中に閉じこもって自分以外を排除しながら、自分の狭い価値観に囚われながら、それでもなお自分の存在を世界側から求めて欲しいなどと願うために生きているのではないだろう。自分が他人より上手くできないこと、自分が好きになれない自分、自分の環境が恵まれていないこと、心を歪ませる理由を何度思い出し頭に擦り込んだところで、そんなことで自分自身がしょーもない人間だ、という理由にはならない。本当は知っている。どんなことに心が躍るのか、どんなことで優しい気持ちになれるのか、何を信じたいのか、どんな人間でありたいのか。本当は知っている。


LIFE is wonderful.

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