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ダウン症の子は天使なのか〜優生思想を考える〜

娘が生まれる前から「ダウン症の子は天使」という言葉を耳にしていた。「天使」という言葉で「私は差別していませんよ」と言いたいのかもしれないけれど、「私たちとは違う」と線引きをしていることに本人はきっと気づいていない。
もちろん相手に悪気が無いのは分かるから、言われても怒ったりしないし、笑顔でスルーするけれど、少しモヤモヤしてしまう。少しずつ意識が変わってくれたらと思う。


どんな赤ちゃんでもかわいい

「天使」のほかにも「いつもニコニコしている」とか、「笑顔がかわいい」とか、「ダウン症の子は怒らない」なんて言う人もいる。確かにダウン症のある赤ちゃんはかわいいけれど、ダウン症の有無にかかわず、どんな赤ちゃんでもかわいいと思う。

私は子供を3人育てている。7歳のダウン症のある娘と、ダウン症のない5歳と3歳の息子達だ。それぞれの個性があるし、笑うし、怒るし、不機嫌にもなる。もちろん喧嘩だってする。兄妹の中で誰かが一番かわいいと思ったこともないし、順位や優劣をつけるものでもないと思う。みんなそれぞれにかわいい。

特定の個人を「天使のようにかわいい」とするのは全く問題ないと思う。他にも、ダウン症にかかわらず赤ちゃんみんなが「天使」だとするなら納得できる。

娘たちは「ダウン症のある普通の人」だ。健常者と区別して神聖化する必要はない。彼らは人々を感動させるために生きているのではない。皆同じように人権があり、尊厳を持って自由に生きるべきだと思う。

1996年まで存在した「優生保護法」

日本には「優生保護法(ゆうせいほごほう)」という法律が存在していた。

優生保護法(ゆうせいほごほう)とは、1948年(昭和23年)から1996年(平成8年)まで存在した日本の法律である。優生思想・優生政策上の見地から不良な子孫の出生を防止することと、母体保護という2つの目的を有し、強制不妊手術(優生手術)、人工妊娠中絶、受胎調節、優生結婚相談などを定めたものであった。

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優生保護法は、命に優劣をつける「優生思想」に基づいて作られた法律で、ナチスドイツの障がい者を排除する「T4計画」に影響を受けているとも言われている。優生保護法のもと、「不良な子孫の出生を防止」するために、中絶や不妊手術などが行われていた。そしてこの思想に基づく優生保護法は新しい差別を生み出していく。「優れた仕事をできる人だけが評価される」という能力主義や生産性至上主義にも繋がり、健常者にとっても、生きにくい世の中になってしまった。

何をもって健常者とするのかは様々に議論されているが、ここでは障がい者と区別するために「健常者」とう言葉を使わせていただきたい。

不幸な子どもの生まれない運動

優生保護法の中でも有名なものに、「不幸な子どもの生まれない運動」というものもあった。

不幸な子どもの生まれない運動(ふこうなこどものうまれないうんどう)とは、1966年から1972年にかけて兵庫県で執行された政策である。妊婦の出生前診断を奨励し、羊水検査でダウン症候群など染色体異常の可能性のある胎児を見つけることを推進した。その当時、同様の政策は多くの都道府県で実施されており、「不幸な子どもを産まない」「不幸な子どもの生まれない」という表現は他にも10の都道府県のスローガンに使われていた。

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この運動については荒井裕樹氏著『 障害者差別を問いなおす』にも詳述されているので、興味のある方はぜひ読んで欲しい。

一九七〇年代には、生殖技術の発展にともない、いくつかの自治体では妊婦への「胎児チェック」(羊水を採取・分析して胎児に染色体異常に由来する障害がないかをしらべる検査)の導入が進みました。「胎児チェック」を進めようとする論調の中には、障害児が生まれること(障害児を産むこと)を、一方的に「不幸」だと決めつけるものが少なくありませんでした(有名なものに、兵庫県が行なった「不幸な子どもの生まれない運動」があります)。

荒井裕樹. 障害者差別を問いなおす (Japanese Edition) . Kindle 版.

現在70歳になる私の母親は1952年生まれだから、「不幸な子どもの生まれない運動」のあった時に小学生から成人までを過ごしている。母は「妊娠したら羊水検査をしなさい」などと、私が10代の頃から言っていた(私は羊水検査をしなかった)。ここで決して母を責めたいのではない。70歳の母は「障がい者はかわいそう」という風潮の中で若い時代を過ごしている。母は自分が差別をしていることに気づいていなかった。そして私自身は、母親をはじめとする社会に植え付けられた「自分の価値観」を変えるまでに随分苦労した。(今は母も私も、娘のおかげで障がいに対する価値観が日々更新されている)

「不幸な子どもの生まれない運動」は、障がい者団体や人権団体の強い異議申し立てにより、1972年に中止された。運動は中止されたとはいえ、「障がい者は不幸だ」とか「障がい者は生まれないほうが良い」という価値観は根強く残ったと思う。それは2016年7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件にも繋がっていく。

文化になってしまった「優生思想」

「不幸な子どもの生まれない運動」が無くなっても、私が思春期だった1990年代は、優生保護法の施行が続いていた。
当時私の母は「ダウン症の子はみんな同じ顔になり、多くは幼い頃に亡くなる。長く生きられても30代で亡くなってしまう。妊娠したら必ず羊水検査をしなさい」と言っていた。当時、優生保護法の存在は知らなかったけれど、それが私たちにとって常識だった。

今から20年近く前に「たったひとつのたからもの」というドラマがあった。歌手の松田聖子が主演し、ダウン症の子を育てる感動ストーリーだ。そこに出てくる男の子も6歳で亡くなる設定だった。私が学生の時に見た記憶があり、ダウン症の人は長生きできないと思い込んだ。

テレビには障がい者に関する感動ストーリーがあふれ、「かわいそうだから」と寄付を募った。次第に「障がい者はかわいそう」という意識が自分に刷り込まれていったと思う。当然私も差別する側だった。

優生保護法の背景を考える

これは私の個人的な推測だけれど、優生保護法が施行された当初の1948年(今から75年も前!)は現在よりも医療技術やテクノロジーが発達していなかった。戦争もしょっちゅうあって、国も人々も貧しかった。医療保険も無く、経済的に病気を治すのも大変だし、戦後で病院も手狭だったのだと思う。基礎疾患の多いダウン症の子が生まれても助けることができなかったから、悲しい思いをする前に諦めざるを得ない状況だったのだと思う。当時のことを考えると本当に辛いけれど、当時は妥当な判断だったのかもしれない。

当時の人たちはきっと「かわいそう」という『善意』や『正義感』で優生保護法を行っていた。悪意ではなく『善意』だから問題は難しくなる。「良かれと思って」なされる行動の威力は大きい。今から75年も前に優生保護法が良しとされてから、優生思想は次第に一時的なものではなくなり、それが空気感みたいなものとして人々の常識になり、「文化」になってしまった。

現在でも優生思想は形を変えながら続いていると思う。先日、家に来てくれたシルバー人材の74歳のおばさんも、娘にダウン症があると知って「かわいそうに。生まれる前に分かるはずなんだけどね。」と言っていた。以前は私もそんな言葉に傷ついていたけれど、今では「そういう文化で育った人は仕方ない」と思えるようになった。歴史を学ぶと人は強くなれる。

健常者にとっても生きづらい思想

優性思想によって健常者にとっても、生きづらい世の中になった。「人様のお役に立てる人になりなさい」「人に迷惑を掛けてはいけない」という文化がはびこってしまった。人より優れていないと生きる価値が無いと思い込み、自殺をする人もたくさんいる。生活保護を受けるだけで差別される。迷惑を掛けたくないから、誰にも助けを求められず困っている人も多いと思う。つい最近では「同性カップルには『生産性がない』」と発言し問題になった政治家もいた。これも立派な優生思想だと思う。

一方で、健常者より優れているとして、ダウン症のある人達の特技も注目されてきた。このことは悪いことでは無いけれど、ダウン症があるのに絵が上手いからすごいのではなくて、その人が努力して才能があるから素晴らしいのだ。ここにも優性思想の片鱗が見えてしまう。

特技の無いダウン症のある人はどうなるのだろう。特技が無ければ生きる価値がないのだろうか。特技を磨いて無理に健常者に近づこうとしたり、無理して人より秀でようとしなくて良いと思う。これは健常者にも言えることだ。その人らしく生きられればそれで良いと思う。できればその人の好きなことができるといいなと思う。

誰にでも生きる権利がある

現在では医療技術も進み、日本も豊かになり、ダウン症のある人たちは寿命を伸ばしている。福祉も手厚くなり支援の輪が広がっている。だから、そろそろ優生思想も淘汰されて、「障がい者はかわいそう」ではなく、「みんなちがってみんな良い」が当たり前になって欲しい。人の役に立たなくても、迷惑をかけても(健常者だって人に迷惑をかけながら生きている)生きていて良いと思う。障がい者は、健常者から差別される対象ではない。少なくとも憲法で「基本的人権の尊重」が掲げられている日本では。

ダウン症の子を「天使」だなんて神聖化して誤魔化さなくても良い時代が、もうすぐそこにあると思う。
天使じゃなくても、人より優れていなくても、特技がなくても、誰にでも自由に生きる権利がある。自由には制約がつきものだけれど、それも含めて自由を追求する権利がある。そしてこの権利は、ダウン症のある人たちに限ってではなく、どんな人にも共通することだと思う。

ダウン症や障がいのある人たちの置かれた背景を考えることによって、「自分も自由に生きて良いのだ」と、希望を見つけられる人が増えたらと願う。

参考文献


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