研究者の使命感
大変ご無沙汰しております。
また長い期間投稿ができずにおりました。私の身の回りもだいぶ落ち着いてきましたので、これからは投稿を増やせればと思っております(確か前回もそう言っていた気がしますが・・・)
私が2023年1月に投稿した「なぜ研究者は海外(日本国外)に行くのか?」という記事をたくさんの方に読んでいただいたようで、今回も「なぜ研究者は⚪︎⚪︎するのか?」という問いの根幹である、「なぜ研究をするのか?」の観点から、私が今感じていることを書いてみたいと思います。
今、私の手元には2冊の本があります。
前者は2022年にノーベル生理学・医学賞を受賞した筆者が研究人生を綴ったもの、後者は、クリストファー・ノーラン監督の同名映画の原作となった、「原爆の父」と呼ばれた科学者の伝記です(中、下巻もあります)。この他にもアインシュタインなど著名な科学者の伝記ものはたくさん出版されています。私はこうした本を読むのが大好きです。それぞれの研究者の生き方や研究への姿勢は、全て見習うことはできませんが、非常に参考になります。どの方も、それぞれのご苦労があり、何10年も自分の研究の問いを追求してきた方ばかりです。私も頑張ろうと思います。
こうした本を読むと、よく研究の環境(研究所などの物理的な環境から、人的リソース、待遇など)の時代による違いを実感します。昔と比べると、現在の研究者は明らかに倫理や経済的な制約の縛りが多い環境で研究をしています。そして、色々な事がすでに解明されている中、新たな問いを探す前に、既往研究のレビューに膨大な時間を費やします。そして、やっと自分のオリジナリティを出していく、そんな過程を踏まなければなりません。それでは今の研究者は、なぜ研究をするのでしょう?
「新しいことを発見したい」という思いで日々研究に取り組んでいる学者は多いですが、その根底には「社会をより良くしたい」、「そのためにこの課題を解決したい、その糸口を見つけたい、開発したい」という思いがあると思います。こちらは動機の側面ですね。では「なぜ研究をするのか?」という問いは、違う角度から、「なぜそうまでして研究をするのか?研究者を目指すのか?」という意味にも取れます。
研究者になるまでには、学部→修士→博士を経て、ストレートに進んだとしても、日本では9年かかります(海外の大学ではこの年数は多少違いがありますが、概ね8−10年です)。もちろんその分学費もかかりますし、例えば、同級生たちは学部を修了して就職し、収入を得て、中には結婚し、家族を作っていく人もいる中、自分だけが学生の身分がプラス5年続きます。そして、博士課程を修了したらすぐに研究職を得られる保証はどこにもありません。(よく博士号は足の裏についた米粒=取っても食えないと表現されることがあります。)
では私たちはなぜ、それでも研究職を目指すのか?研究を続けるのか?それは、やはり自分の追求したいものがある、そしてそれを通して社会に役に立ちたい、という思いではないかと思います。中には「なんとなく、大学教授になりたかった」という人もいるかもしれませんが、「なんとなく」という動機で9年の修行を続け、その後、ポスドクや任期付きのポストの保証も100%ない世界に飛び込んでいく事はそうできるものではありません。
私自身も、日々追求しているものがありますし、研究をしている時は夢中になっています。参考文献を本屋さんや図書館で手に取った時はワクワクしますし、すぐにむさぼり読む事もあります(最近は雑務が多くてなかなかできませんが)。日々の生活に忙殺されていると、こうしたピュアな動機を忘れがちになります。私にとって、研究者の伝記ものを読むのは、「私はどうして研究者になったのか?」を振り返る良い機会です。
先ほど、現在の研究者が置かれている環境は倫理的・経済的制約が多いと書きましたが、テクノロジーが発達した今、随分と楽になったこともあります。その際たるものは、論文のジャーナルへの投稿や、出版原稿の作成ではないかと思います。過去の研究者たちは電子メールなどない中、論文を紙+郵便で投稿し、編集者と気の遠くなるようなやりとりをしていました。今私たちにはこうした苦労はありません。テクノロジーが発達したからこそできる(やりやすくなった)研究もあります。私の分野ですと、交通需要予測の計算が今は一瞬でできてしまいます(数十年前は一晩かかっていましたし、入力ミスがあると、またイチからやり直しでした)。ですから、過去の研究者と今の研究者の苦労を単純に比べることはナンセンスです。その時代の、それぞれの研究者の熱意や苦労を感じ取ることができるこうした研究者の伝記もの、ご興味のある方々は是非ご一読ください。
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