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反知性による知性的知性批判について

 『ダダ・シュルレアリスムの時代』はシュルレアリスムの手放しの賞賛には陥らない。著者はある節の最後をこう結んでいる。

 「存在の深部に下降し、そこなら何ものかをもち帰ろうとする試みという意味で、シュルレアリストたちのエクリチュール・オートマティックは、西欧近代の理性の支配によって失われた彼らの分身を再発見しようとする実験だったといえるだろう。だが理性へのこの反抗が、自動筆記の速度を増すことで「主体」を消去することができるかもしれないという、まったく「科学的」な思いつきに依拠していたことは、逆に理性へのシュルレアリスムの「信頼」を暴露するものだ。(・・・)
 西欧文明にあれほど長いあいだとりついてきた「主体」が、そんなにたやすく消滅するはずはない。それにもかかわらず、自動記述という一種の機械的操作を意識的におこなうことによって、この困難な作業が可能になると信じようとしたブルトンたちは、結局、デカルト的宇宙から脱出できなかったのではないだろうか。」

 20世紀という時代は、二度の大戦にともなう兵器開発やコンピュータ・インターネットといった電子機器に見られるように、西欧近代の理性の象徴ともいうべき科学に基づくテクノロジーの発展の時代であった。それとともに人文的な分野では、人間の行き過ぎた発展に警鐘を鳴らす、「反知性」の時代でもあった。
 シュルレアリスムもそういった数多くの「反知性」の思想・運動のなかの一つとして数えられるが、これには引用で述べられたように大きな矛盾が含まれている。

 科学批判の思想が科学的な手法によって裏打ちされる、という矛盾は、例えば科学技術と環境破壊の関係性から、科学を科学的な手法で批判するといった方法とは違い、「科学そのもの」を批判する場合には撞着を起こしてしまう。
 論理的な矛盾はさておくとしても、思想としての信頼性が脆く崩れやすいものになってしまう点は否めない。西欧近代的な理性から解放され、本来の自分へと回帰しようというスローガンは、科学的手法を捨てきれていない点で回帰の不可能性を体現しており、人々を落胆させてしまうだろう。

 理性からの解放された状態とはどういう状態だろうか。ユングの「具象性」という概念がそれに近いと思われる。
 具象性とは、感情や思考が感覚と混ざり合って区別できないことをいう。具象性とは太古性でもあり、この特徴は未開人によく表れる。例えば、未開人には死人を頭に思い浮かべるだけで死人を現実的、感覚的なものと認識し、会話をすることができるものがいる。また、神聖な樹木が神の宿っている場所であり、それどころか神そのものであると考えることができるものもいる。現代人の考え方では抽象的なものが、未開人では具象的なものと考えられている。
 具象と対立するのが抽象である。抽象とは理性である。また、科学理論とは世界のあり方を抽象化したものなので、これは科学的ともいえる。

 現代において、人々を納得させるような思想を打ち出すためには科学的な手法が切り離せないものになっており、ともすれば未開人における具象性は、瞑想や宗教的修業をきわめたものが到達することのできるごく個人的なものなのかもしれない。(その点カウンターカルチャーにおけるドラッグは万人に共通する手段を提供した、ともいえる)
 シュルレアリスムやそれ以降の西欧近代批判(ポストモダニズム)、反知性、反理性的な思想は理性の象徴である科学的なものを抜け出せず、それゆえに理性が理性を批判するという奇妙な矛盾を呈しているのである。

参考文献:
塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』
C.G.ユング『タイプ論』林道義訳

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