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世界は誰が操っているのか ーパラノイア文学と《ホモ・デウス》ー

 世界には操られるスキがある。というか、人々には操られるスキがある。そして人を操ろうとしているヤツはたくさんいる。詐欺師、カルト、資本家、政治家、などなど。特に資本家と政治家は互いに手を組んでいかに人を操ってやろうかといつも目をギラギラさせている。
 だから当然誰かが世界を牛耳っているに違いないのだ。そう考えるのは自然の成り行きである。

 ここで、世界は誰かによってコントロールされている、という主題を扱う文学のことを「パラノイア文学」と呼んでみることにしよう。パラノイアとは偏執病のこと。現実の裏側には多重の陰謀が仕組まれていて私たちはそれに支配されているのだ、と考える妄想のことである。
 代表的なのはジョージ・オーウェル『1984年』、トマス・ピンチョン『重力の虹』、ウィリアム・バロウズの妄想的な理論「言語ウイルス」、フィリップ・K・ディックの諸作品、などであろう。
 彼らのうちのいったいどれだけがその妄想に対して意識的だったのか。バロウズの「言語ウイルス」は明らかに常軌を逸した妄想だろう。言語は地球外生命体によってもたらされた。よって人々は地球外生命体にコントロールされている。今こそ我々は麻薬を手に取って中毒者となり、沈黙しなければならない!
 ピンチョンやディックに関してはほとんど意識的だ。『重力の虹』では第二次世界大戦を引き起こした"裏の存在"についての探求がなされる。またディックの主要なモチーフのひとつでは麻薬中毒者を作り出す巨大産業が暗躍している。国家や資本家によるコントロールについての示唆こそあれ、基本的には世界の裏側にいる存在には一歩手前で到達できない。

実際に伝えられる内容は常に決定的な真実の一歩手前にとどまっているのである(フィリップ・K・ディックのいい方を借りるならば、「最後から二番目の真実」ということになるが)。

「アメリカの悪夢――ピンチョン・ディック・クローネンバーグ」鈴木聡

 この中で一番古参であるオーウェルはその陰謀がもっともリアルに感じられる時代に生きていた。『1984年』は1949年に刊行された。全体主義やスターリニズムの時代、第二次世界大戦や冷戦を通して各国が世界の支配者になろうと躍起になっていた時代である。
 『1984年』はすでに世界が一部の党の権力者によって「完全に」コントロールされていて、被支配者はきわめて貧しい生活を送らされているにも関わらず権力者を称揚し、尊敬し、崇めている。主人公はその陰謀に気付いているが、彼は少数派であり、党の権力は絶大で逆らうことができず無力感に打ちひしがれている。

 僕はこういった陰謀論を妄想だと一蹴した。何も理由がないわけではない。ユヴァル・ノア・ハラリは『ホモ・デウス』でこう述べている。

今やテクノロジーは急速に進歩しており、議会も独裁者もとうてい処理が追いつかないデータに圧倒されている。まさにそのために、今日の政治家は一世紀前の先人よりもはるかに小さなスケールで物事を考えている。結果として、二一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。政府はたんなる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない。政府は、教師の給与が遅れずに支払われ、下水道があふれないことを請け合うが、二〇年後に国がどうなるかは見当もつかない。

 全体主義と共産主義の敗北を見てしまった我々は、今のところ資本主義・自由主義に身を任せている。このイデオロギーにおいて、少なくとも政府の力は弱まる傾向にある。
 そして、現代はもはや複雑すぎてなにがなんだかわからないのだ。未来を見通し権力を維持するだけの頭脳を持った者は存在しない。『1984年』では権力を未来永劫に維持する理論を一章まるまる使って述べているが、そんな理論は現実には存在しない。だから資本家が世界を牛耳っているって陰謀も現実的じゃない。

 ところで、ユヴァル・ノア・ハラリはユダヤ人だ。ユダヤ人、ってことは・・・・・・やっぱり嘘をついてるんじゃないか! 自分たちに都合のいいことを言っているだけかもしれない! なんてことだ!

 さておき、ここで少し別の話題に触れてみたい。僕はパラノイア文学として何人かの作家を紹介したが、彼らの小説は以前「ポストモダン文学」と呼ばれもてはやされていた。今ではこの語はほとんど死語に近い(個人の見解です)。現代とはフェイクニュースや陰謀論の時代であり、それはパラノイアの時代とも呼べるのだが、そういったものをコミュニケーション理論やサイバネティックスと関連させて最初に批評していたのは紛れもない、ポストモダン関連の言説である。サイバネティックスによれば世界とはまず情報であり、受信者/発信者の関係であり、コミュニケーションで世界の在り方が決定される。世界とは多義性だ。ネオナチ、加速主義、リベラル、リバタリアニズム、それらイデオロギーがフェイクニュースや陰謀論を駆使して戦っている。世界の在りようはポストモダンから大して変わっていないように見える。だからこそ、今一度ポストモダン文学が再評価されてもいい頃合いかもしれない。

 僕は陰謀論が全く存在しないと考えているわけではない。未来永劫にわたって世界を支配するとんでもない超人が存在しないのだ。その代わり小賢しい詐欺師が、大した野望も持たない小悪党がうようよ存在しているので、目に入ってくるごみのように気持ちイライラさせられている。フェイクニュースを書き込むサイトを立てて陰謀を信じる人から金を巻き上げている人がいるそうだから驚きだ。

 世界は自動化している、と僕は考えている(ブギーポップの「僕は自動的なんだよ」みたいな厨二病な言葉だ)。世界は意志によって変容できない。そう考えられるのは実存主義の時代までだ。ポスト構造主義とかポストモダンとか、ポストうんたらかんたらの時代では世界は何らかのシステムによって自動的に動いている。それを押し進めるように、ユヴァル・ノア・ハラリのいう人間の意思決定が機械に先回りされること、もしくはサイバネティックス的に言えば人間が情報化されることで、世界はいよいよ意志とは関係なしに自動的に動くようになる。
 だからといって、世界は自動的なのだから何もしなくていい、というのはよくない。自由主義下においてはそういう傾向が強い。それは、ある面から言えば以前の記事でも書いたように倫理の欠如であるし、別の面から言えばニヒリズムなので全体主義のような思想に結びつく恐れがある。
 そして、未来の予測不可能性は絶対的な支配者を生み出さないと同時に「正解の世界」というビジョンを不可視にしている。正解のわからない世界で、人類はこれから先何を選択していけばいいのだろう。

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