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相手に自分を伝えるデザイン〜二条城編〜

こんにちは。

相手に自分のことを伝える際、現代ではSNSのプロフィール文や投稿内容、ポートフォリオが主流になりました。

けれど、それってここ10年の話なんですよね。
一昔前はどうだったか。

昨日、梅を見るために友人と二条城へ行きました。しかし、小学生の頃に感じることのできなかった新たな視点で二条城を観光しました。そこでの学びは、

二条城の屏風の絵や構造が、その部屋に迎える人たちの立場によって異なり、でも共通する目的が「徳川家(将軍)の権威を伝えるため」だった

ということです。


二条城とは何か

【二条城】
二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。
- 二条城公式サイトより

理系の方、世界史選択で日本史を学ばなかった方。
小学生のころ「大政奉還」で絶対に学んでいます。記憶の奥底にある方は引き出しをそっと開いて思い出してください。

徳川家の本拠地は江戸城(現在の皇居)ですが、別荘地として二条城が建てられました。この目的は、(私の推測ですが)京都御所の近くに建てられていることからも分かりますが、皇族よりも徳川家の権威を示すためと思われます。


二条城内部の造りと、描かれていた屏風を比較する

二条城内は写真撮影禁止だったため、ことばで伝える方法しかありませんが、二条城の造りについては、公式マップをご覧ください。

徳川家は「二の丸御殿」で来客者を迎え入れます。
そして、迎え入れるお部屋は来客者の地位によって異なります。

一番入り口側
大名またはその使いの者を迎え入れる待合室。屏風には虎の絵が描かれている
→徳川家の権威を示すため。待合室で虎の絵が飾られていたら、「なんか恐ろしい…」と想像できます。「徳川家って恐ろしい存在」と思わせます。

真ん中ら辺の部屋
取り次ぐための部屋。現在で例えたら、会社の玄関。
受付の者が来客者を迎え入れ、要件を聞くため、将軍に直接合わせず、一旦取次の者に要件を聞かせます。
→一手間取ることで、将軍の権威を示すため。これは今でも引き継がれている文化のような。
ちなみに、この部屋での屏風は松の屏風が描かれていました。

大広間
大政奉還の舞台となった部屋。
→天井が高く、もちろん将軍が座る場所は一段高くなっています。天井が高く、部屋が広くなっている理由としては将軍が大名たちを見渡せるような仕組みになっています。
→この部屋の屏風も松でした。

皇族の勅使の部屋
皇族の勅使を、大名やその使いの者と別の部屋へ招きます。
宮廷特有の建築洋式を近づけています。
→宮廷の文化を尊重していることを示すため、と考えられます。そのため屏風も宮廷の屏風とほぼ統一しておりお花系だった記憶です(記憶が曖昧で申し訳ありません)。

改めて見返してみると、将軍の権威を示すための方法が多種多様あることが分かります。そして来客者の立場によって、招く部屋やその部屋のデコレーションも変えています。


一方で…お城のデザイン

一方、別日に訪れた姫路城を例に取ると、一国の城主の権威を表す城なので屏風を飾るというより、外観に個性を出していると思われます。姫路城は白色ですが、松本城や松山城は黒色です。
そもそも一国の城主たちは、戦いに備えることが目的なので、内部を飾ることよりお堀を建設したり城下町を発展させたりすることが優先順位が高めですよね。

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画像2

松山城はすこし見にくいですね…(笑)
山の上に天守閣がちょろっと出ています。


二条城:別荘地として利用するため
姫路城はじめ地方のお城:一国の主人としての権威を示すため、戦いに備えるため


同じお城なのに目的によって大きく内装が異なりますし、創立者の思惑がうかがえます。そしてその思惑は、現代と通じる点がたくさんあります。そういう視点で歴史の遺跡をめぐると、とても面白いと思います。

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今回は斬新な視点で「デザイン」を考察してみました。
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