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【短編小説】夫が帰って来ない夜に。


時刻は22時。

夫は帰って来ない。

今日のお昼に私は保険会社に電話をしたばかりだ。「死亡保険の名義人が奥様になってますが、被保険者である旦那様の名義に変えられた方がお得ですよ」と、保険の窓口の人に言われたのだ。

難しいことはわからないけど、名義人を変えないと夫に何かあった時、もらえる額が200万くらい少なくなると言うことだった。

それで直接保険会社に電話をかけた。だが「こういう時期ですし…業務時間短縮の為、担当の者からの折り返しが本日中だと確約できず…週明けでもよろしいでしょうか」と言われたのだ。

まあ…何かあった時の為の保険だけど、急に何かあるわけない。のんびり名義は変更したらいい。いきなり夫が今日死んだら金額的には大損だろうがそんなことあるわけない。
「全然、いつでも大丈夫ですよ」
そう私は言って電話を切った。

時刻は22時。

夫は帰って来ない。

いつも20時には「帰るよ」と連絡をくれる夫。今日も例外なくその連絡は来ていた。そして「事務所にイヤフォン忘れたから取ってくる」とも、来ていた。夫の職場は家から二駅先。家からは30分もかからない。いくら探し物をしてるとは言え、21時には帰ってくるだろう。そして「はーい」と送った私の返事に既読はついてる。

しかし、それから連絡がないまま時刻は22時を迎えたのだ。

こういう時、私は連絡しないタイプだ。

夫は常識的な男の人だ。浮気もしない。ハメも外さない。ただ、たまに連絡もなくどこかに寄り道して帰ってくることがある。本屋に寄ってた、とか、職場の人と立ち話してたら盛り上がっちゃったとか。

だから私は信じてるのだ。どんなに遅くなっても「イヤフォンが全然見つからなくて」とか「同僚と喋ってて」とか言って帰ってくる夫のことを。

締め切りはまだ先だが、手をつけてる原稿の仕事があるので私はサクサクと進める。

ふと、脳裏に浮かぶ。

誰かの命が消えるのは、こんな夜なのかもしれない。

「まさかそんなことあるわけない」と思っている時、その瞬間は訪れる。

少し帰りが遅いだけ、少し連絡が来てないだけ、でも–

駅の交差点。白線の上に流れる血を想像する。

絶対に死なないと思っていた夫が頭から血を流して死んでいる。

ポケットからはイヤフォンが飛び出している。家で飲もうとしてた缶ビールも道路に転がっている。

…夫が死んだら今いくらもらえるんだろう。

こんなこと考えられるのは、やっぱり絶対夫は死んでないと思うからで(変な想像はしても)別に不謹慎ではない。今日のお昼に保険会社に電話したからこういう思考回路になるのもしょうがない。

まだ保険は加入して3年くらいだから…いくらだ?よくわかんないけどこう言うのって1000万くらいはもらえるんじゃなかったっけ。

ふと、想像する。

夫のいない世界。

夫がいなくて、1000万円を持ってる世界。

イベント会社で働く夫の年収は、高くはないがごく平均的な一般家庭のそれと同じだ。でも夫がいなくなったら、私一人の稼ぎで今のマンションには住めない。細々とした原稿料だけではとても足りない。

いや、でも夫がいなくなったら1000万円は入ってくる。月々に確か15万くらい入ってきた気もする。あれ?総額で1000万円になるんだっけ。ああ、私はやはり保険を理解してない。何度も保険の窓口に行ったのに、うろ覚えだ。もう少し少ない額だったかも。でもとにかくなんとなく葬式代と、毎月10万ちょっとは確実に入るように設定していた。はず。

今の生活水準を落とすことなく、生活サイクルも崩すことなく、過ごせるかもしれない。


あと想像できること、それは…新しいパートナーの存在だ。

実はものすごく私は恋愛体質なのだ。夫には内緒だが、常にいろんな場所に『心のアイドル』と言う位置付けの男性がいる。でも浮気まで行かないのは心から夫を尊敬し愛しているから。そして浮気がバレたら単純にすごく面倒だと思うから。

夫はとても嫉妬深いのだ。ただの男友達とお茶しただけで「誰なの?」「何のつながりなの?」と、詰め寄られたことがある。別になんてことないただの友達だった。だけどそれからもう私は男友達と二人で会う、と言うのを自ら禁じた。男の人と会うなら三人以上。高校の同級生だろうが、仕事先の人だろうがそうした。面倒だから。そしてこれは暗黙のルールとして定着した。

しかし、もしも夫がいなくなったら私は、速攻で彼氏を作ると思う。寂しすぎて、きっと一人じゃいられないからだ。夫といる間、ずっと私は男の人と遊びに行くのを我慢していた。夫がいなくなったらきっと、今まで手を出したことがない領域の男性にも手を出すに違いない。

それは『年下の男の子』と言うやつだ。

20代の頃、私は年上の男性にしか興味はなかった。そして20代の最後の年に、私は5つ年上の夫と結婚した。

しかし私は30代に入り、若い男の子の可愛らしさに気づいてしまったのだ。きっかけは、仕事先で知り合った若い編集部の人だ。若くて笑顔が素敵というのは、とても尊い。夫が亡くなったら、今は遠くから見守っていただけの若き獅子に私は触れてしまうかもしれない。

年下相手だと、やはり私がデート代を出すのだろう。しかも若い男の人はきっとたくさん食べるに違いない。遠慮もきっとそんなに知らない。でもまあなんてことはない。私には1000万円があるのだ。若い男もそれを知って、きっと私に甘えてくるだろう。

…酷い。夫が亡くなって手にした保険金を若い男につぎ込むなんて非道だ。なんて恐ろしい想像をしてしまったのだろう。私は年下の男のことを考えるのをやめた。

スマホを見る。まだ連絡は来ていない。

お腹が空いた。夫が帰ってくるまで待ってようと思ったけど、ついに私は一人分のご飯を温め始めた。

でもこういうことは、ままある。夫も私も仕事の時間がバラバラなので、食事は二人分作るが一緒に食べたり食べなかったり、比率は半々だ。

お味噌汁を温めながら想像する。

夫がもしこのまま帰ってこなかったら、年下ではなくある程度自立した男性と付き合う可能性が高い。きっと、弱った風を装って、私はイケそうな男性をことごとく飲みに誘うだろう。「寂しくて」はきっと免罪符だ。彼氏を作るまでに、一旦いろんな人とデートを楽しんでみたい。イケメンや社長や芸人さんや、なんでもいい。誰とデートしても怒られないんだ。飲みすぎてしなだれ掛かるもよし、潤んだ瞳で見つめるもよし。やがて何人かに声をかけてるうち、優しい同年代の幼馴染ふうな男性が本命に立候補し、私を支えてくれるだろう。こういう時はイケメンでも社長でも芸人さんでもなく、幼馴染っぽいタイプが支えてくれると相場が決まってる。

しかし、幼馴染タイプに浮き足立った脳内を悟られるわけにはいかない。なにせ夫が亡くなったのだ。

「寂しくて」は本当に「寂しく」に見えないといけない。こういう時は不真面目に見えるのが一番興冷めする。

幼馴染が「もう一件行く?」と聞いてきたら私は「ダメ、帰りたくなくなっちゃうから…」と言う。

「別にいいでしょ、帰らなくても」そう言う幼馴染に私は「だってまだ早いよ…夫が亡くなったばっかりなのに」これは絶対言わないといけない。そして絶対にそこで帰らないといけない。ここで距離を一回取るのが限りなく正解に近いと思われる。そしてつかず離れずの関係を保ちながら私たちは半年過ごすのだ。

…いい!なんて素晴らしいシナリオだろう。
お金目当ての年下男性よりずっと現実的な妄想だ。

私はお味噌汁の火を止める。レンジで温めていた肉野菜炒めも頃合いだ。

想像はまだ止まらない。私は食事を食卓に運び、もぐもぐしながら、ある可能性についても考え始める。

「今、妊娠してたらどうしよう」

ということだ。一昨日、なんかそういう感じになったのと、昨日がちょうど排卵日だったということで、タイミングとしてはバッチリなのだ。

どうしよう…夫が亡くなる直前に夫の子供を妊娠してるなんて…。

しかも初めての妊娠だ。両親は静岡だし、私は一人でこの子をなんとかしないといけない。怖い。無理だ。不安だ。やっぱり彼氏は早く作った方がいい。私を理解してくれて、優しくて、結婚前提で付き合ってくれる幼馴染タイプの彼氏だ。しかし、妊婦の未亡人をちゃんと愛してくれるだろうか…不安だ。

しかも妊娠してたら私から飲みに誘うこともできないじゃないか。そもそもデートにも誘えないし誘われないし、妊娠中にどうやって男性と関係を築いたらいいのか皆目見当がつかない。

いや、きっと大丈夫。こういうものは縁。出会うべき人には必ず出会えるのだ。夫もそうだった。夫のような素晴らしい男性に会える日が来るなんて、その日までの私には想像もつかなかった。人生に必要な人は、必ず必要なタイミングで現れるのだ。

だから、私のお腹に命が宿っていたとしても、その命を一緒に育んでくれる存在との出会いは遅かれ早かれ訪れる。もしかしたら近所に住んでる後輩のYくんかもしれないし、来年東京に転勤すると言ってる大学時代の友達Tかもしれない。二人ともいいやつだ。いいお父さんにはなってくれそうだ。…ほんとごめん勝手に、こんな想像の材料に使って。でも、もしその時が来たら私の中で間違いなく候補に上がる二人なのだ。

しかし、気になるのが今の夫の両親との関係だ。夫が亡くなったら徳島のご両親と私はどういう関係になるのだろうか。もうあの実家に帰省してはいけないのだろうか。徳島駅の少し行ったところにある徳島ラーメンはもう食べられないのだろうか。甘じょっぱいスープの味を思い出しながら私は自分の作った味噌汁を飲む。阿波踊り、結局一回も見にいけてない。毎年「いつ帰るんな」と、連絡が来るけど阿波踊りの時期は私も夫も仕事の都合がなかなかつかないのだ。

「孫はまだかいな」の話題が実家に行くと必ず一回はある。結婚して五年経つのに子供がいないことを、申し訳なく思うこともある。夫と私の仕事のタイミングが落ち着いたら…と言い続けて五年が経ってしまったのだ。

なのに。ようやく孫の顔が見せられると思った時、夫がいなかったら…。
あのご両親はさぞ落ち込むだろう。夫は長男として溺愛されて育ってきたのだ。でも、きっと、あのご両親なら夫の忘れ形見を愛してくれるに違いない。

しかし私はいずれ彼氏を作る。それは多分止められない。そしてゆくゆくは結婚もすると思う。

もしそうなったとき、新しい夫の両親と私はどんな感じになるのだろう。私の選ぶ人の両親だ。きっとそちらのご両親も素敵な方に違いない。私は昔からシニア受けがいい。仲良くやれる。

ともすると、うちの子供にはジージとバーバが、合わせて6人いることになる。夫の両親、新しい夫の両親、私の両親。お年玉、他の家の子供より三割り増しなのは確実だ。

しかし6人の両親が6人ともうちの息子を可愛がってくれるのだろうか。あ、もう勝手に子供の性別まで決めちゃった。妄想だし、いいか。新しい夫、新しいご両親はちゃんと可愛がってくれるのだろうか。しかし息子は本当の父親のことを知らない…。新しい夫のことを「お父さん」と信じてすくすく育つのだろう。新しい夫との間にも子供はきっと作ると思う。分け隔てなく、どちらの子も愛してくれるような男性と…私は出会わなければいけない。

食べた食器を下げ、時計を見る。22:40。夫からの連絡は、ない。

さすがに遅い。

夫がいなくなったらまずどこに電話するべきなんだろう。

保険会社か。先に徳島の両親か。

夫の銀行行ってお金おろさないといけないんだっけ。でもどうやって?なんか口座が凍結されるとか言うよな。

夫がいなくなって暫くしたら私は誰かと恋に落ちるかもしれない。でも、夫がいなくなった次の日、私はどんなふうに過ごしてるだろうか。お葬式の次の日、どんなふうに過ごしてるだろうか。遺品整理は、一人でできるのだろうか。

大量のCDは夫の友達にあげればいいのかな。手元には夫の何を残しておけばいいのかな。私の全てを肯定してくれていた夫がいない世界で、私は誰に肯定してもらえるのかな。

夫がもしこのまま帰ってこなかったら。

フライパンの中の肉野菜炒めは明日の私の朝ごはんになる。

朝起きて、お弁当を作らなくて良くなる。

窓を開ける。

さっきまで降ってた雨がやんで路面が少し濡れてる。
とても静かな夜だ。

誰かの命が消えるのは、こんな夜なのかもしれない。

夫からの連絡はない。

そしてこんな妄想だらけの夜に、たった一つの真実がある。

いつか夫は、必ずいなくなる。

23時20分。

鍵をガチャガチャと開ける音がする。玄関まで行く。

「みよさん、ただいま」

夫は、帰ってきた。

「死んでたらどうしようかと思った」

「はい?」

「遅かったから」

「ああ」

「あなたが死んだらね、私はまず若い人と恋愛するのよ」

「ほう」

夫は洗面所に向かい、手をバシャバシャと洗う。

「でもね、若い人とはきっとうまくいかなくて、私は優しい同年代の人と恋愛するの」

「ずっとそんなこと考えてたの?楽しい時間だったね」

「それでね」

私の話を夫は遮る。

「いやー、イヤフォン全然見つからなくてさ、そしたら若林くんが残ってたんだけど一緒に探してくれて。見つかったんだよ。それで一緒に探してもらって悪かったなーと思ったから一杯だけ立ち飲み屋に誘ったら盛り上がっちゃってさ」

そんなことだろうと思った。

「なんで連絡しないわけ」

「まあ大丈夫かなって」

「大丈夫じゃないでしょ、私はずっとあなたが死んだと思って色んな事を考えてたのよ」

「楽しんでんじゃん」

「心配してたんだよ」

「俺じゃなくて自分のことをでしょ」

正解だ。

夫は、イヤフォンがお局さんの机の下に落ちてたことを陰謀論のように語りながら、たくさん笑って、肉野菜炒めを食べた。

夫は交差点で頭から血を流すこともなく、ビールを転がすこともなく、ちゃんと帰ってきた。

ちゃんと帰ってきて、私の作ったご飯を食べて、缶ビールを飲んでいる。

その夜、寝室の電気を消して少しした後、夫が口を開いた。

「俺、仕事で飛行機に乗るたび思うことがあってさ」

「うん」

「飛行機が揺れる時」

「うん」

「もしこのまま墜落しても、みよさんを空から見守るからねって」

「そんなこと考えてたの」

 初耳だ。

「もし俺が死んでも、全然気にせずすぐ次の人見つけていいからね」

 意外すぎる言葉だった。夫は「超」がつくほど嫉妬深いのに。

「なんで?嫌じゃないの?」

「みよさんの幸せを願ってるってことだよ」

「嫌だー!」

私はそう言って夫の足に自分の足を絡めた。

「痛いよ、寝るよ」

「あなたが死んだら私年下の彼氏作るから」

「うん、早く寝ようね」

時刻は25時。

夫と私は、すやすや眠る。

いつかいなくなる時が来るまで

不安になったり、安心したり、妄想しながら、私たちは生きていく。


ーおしまいー




#キナリ杯 #短編小説


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大村仁望
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