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アドラーの心理学【Ep17】

こんにちは、ひとかどさんです。
新年初めてのエピソードは、年始にふさわしいテーマを。
…と考えた結果、今回ご紹介するのは「アドラーの心理学」です。

はじめに

『7つの習慣』『人を動かす』などの自己啓発本にも大きな影響を与えたと言われる自己啓発の源流「アドラーの心理学」

しかし、「アドラーの心理学」ほど「理解が難しいのに、誤解が容易な心理学はない」と言われているのです。
言い換えれば、「わかった気になりがちな心理学」ということです。

だから、今回の記事を読み、アドラーの思想に触れ、その考え方を即座に理解し、「生きることが楽になった」と言う人がいるとしたら…

その人は、「アドラーの心理学」を誤解している

可能性があります。
それくらい、アドラーの思想は奥が深く、難解だということですね。

したがって、今回、この記事を読んでも、アドラーの思想を、一切の誤解なく、100%理解することはできないかもしれません(というより、その可能性の方が高いでしょう)。

だとすれば、今回の記事を読む意義はどこにあるのでしょうか。

それは、アドラーの思想の一端に触れる機会を持つこと
そして、彼の思想を反芻し、自分の生き方や考え方を見直す(もちろん、見直さなくても全然いいのです)こと
それこそが、「自己啓発の源流」であり、新年に学ぶにふさわしいのではないかと思ったのです。

それではいってみましょう。

「アドラーの心理学」の幹となる考え方

「アドラーの心理学」では、次の5つの概念が大きな鍵となります。それは、

  1. 共同体感覚

  2. 目的論

  3. ”横”の関係

  4. 劣等感

  5. 人生のタスク

の5つです。
それぞれ、順を追って説明したいと思います。

共同体感覚

もしも人間がのように泳げたら、を発明することはなかった

もしも人間がのように足が速かったら、自動車を発明することはなかった

もしも人間がのように空を飛べたなら、飛行機を発明することはなかった

「人間は元来、劣っている生き物である」

これが、「アドラーの心理学」の出発点です。

人間は他の生物より劣っていて弱かった。
だから、集団で生活し、仲間と協力して獲物を狩ることでなんとか生きてきた。
協力したかったというよりも、「協力しなければ生きていけなかった」のだと。
つまり、人間は「弱さ」ゆえに「共同体(社会)」を作り上げたのです。
その意味で、あらゆる発明や文明は、人間の「弱さの賜物」なのです。

そう考えるならば、

「共同体感覚」とは、身につけるものではなく、あらゆる個人に内在する「感覚そのもの」

だとアドラーは考えたのです。

さて、「共同体感覚」とはなんでしょうか。
アドラー曰く、それは「他者(社会)への関心」だ、と。
人は、他者と交流し、社会と関わることで、本当の意味で「人」になる、と。
だからこそ、「他者への関心」が希薄だと、人生もそれに準じたものになる、そういうふうにアドラーは「共同体感覚」を説明するのです。

一方で、「共同体感覚」がもたらす、一種の反作用というものがあります。
それが、アドラーが「問題行動」と呼んだものです。

目的論

さて、アドラー先生は「人は目的を持つ」とも言います。

これは、行動心理学(端的に言えば、ボタンを押したら電気がつくように、人は刺激に対して反応して行動する機械のようなものと考える心理学)に対する批判とも言えるでしょう。
つまり、人は機械ではなく、人は「目的」を持って生きているから、刺激を受けても、その反応は人によって異なるでしょ、というわけですね。

人は持っている「目的」に沿って思考し、「目的」に沿って行動する。

こうなりたい、ああなりたい。
こういう気持ち(=目的)を持てることが、人を人たらしめているとアドラー先生は考えます。

しかし、ここで問題が起きます。「目的」が往々にして問題を引き起こすのです。
それが、アドラーのいう人の「問題行動」で、これには5つの段階があります。

〈問題行動の第一段階〉
最初の段階は、「いい子」を演じるという問題行動です。
「いい子」でいることのどこが問題かと思われるかもしれません。ですが、アドラー曰く、彼らは「いいこと」をしているわけではないのです。ただ、「褒められること」をしている。なぜなら、彼らは「賞賛されたい(褒められたい)」という目的に従って思考し、行動しているからです。したがって、「褒めてくれる人がいなければ適切な行動をしない」「罰を与えられないのであれば不適切な行動をする」というライフスタイル(※アドラー用語で、「世界観・人生観」のこと)を身につけていきます。これが、問題行動たる所以です。

〈問題行動の第二段階〉
第一段階で自己の目的が叶わなかった場合や、そもそも褒められるだけの努力をしない場合には、「悪い子」を演じるという問題行動の第二段階に進みます。これは、「褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろう(注目喚起)」という目的に沿って思考し、行動するからです。注意すべきは、この時の目的(行動原理)は、悪くあることではなく、「目立つこと」だということです。結果的に、「悪い子」になってしまうことも多いですが、彼らの本質は「目立ちたい」のです。

〈問題行動の第三段階〉
さて、厄介なのはこの先です。褒められず、目立てなかった人は次にどうするか。それは、「闘争」という問題行動の第三段階です。具体的には、積極的な人であれば「反抗」という形で、消極的な人であっても「不従順」という態度を貫くことによって、社会(他者)に対して「闘争」を起こしたいという目的の下、思考し、行動をするのです。

〈問題行動の第四段階:復讐をする〉
いよいよ第四段階「復讐」です。賞賛、注目喚起、闘争、これらは全て「もっと自分を尊重してほしい」という気持ちが根底にあります。ところが、そうした気持ちが叶わないとみるや、人は「愛」を「憎しみ」に変え、「こんな自分になってしまったのはあなたのせいだ」と訴える「愛の復讐」を企てるのです。しかし、これよりもっと上の段階があり、それは何かといえば…

〈問題行動の第五段階〉

「無能の証明」という目的

特別な存在として扱われようと、色んなことをしてきて、どれもダメだと思った人が最後に行き着く第五段階は、「これ以上私に期待しないでくれ」という領域です。無気力になり、何もできないあからさまな愚者を演じ、演じるうちに本当に「何もできない愚者」になっていくー

これが問題行動の最後の段階です。

長くなりましたが、お気づきでしょうか。
5つの問題行動、そこには一貫したある「目的」があるのです。
それは…

「共同体の中に特別な地位を確保すること」

したがって、人の問題行動を分析するには、その人の過去ではなく、その人の「目的」に着目した方がわかりやすい、というのがアドラーの考えです。

長くなった目的論のセクションですが、「じゃあ、第一段階で早々に褒めればいいのね?」と思った方。アドラーは「褒めるな」と言います。

え…!?

しかも、アドラーは「叱るな」とも言います。

どういうことでしょうか?これは、次の”横”の関係を紐解くとわかります。

”横”の関係

人の問題行動を指摘した上で、褒めることも、叱ることも否定するアドラー。
それはどういうことでしょうか。

一言で言うなら、アドラーは、”縦”の関係ではなく、共同体感覚を持った”横”の関係を理想としているからです。

まず「叱る」ことから見てみましょう。
「叱る」とは、”縦”の関係の代表的な行動です。
立場だったり、経験等において、相手より自分が”上”だと思うから「叱る」ことができるのです。

しかし、問題行動の目的に照らしてみると、「叱る」という行為は、実は有効な解決策にならないことがわかります(第二・第三段階では、「叱られてナンボ」だし、第四・第五段階では叱られても響かない)。

それどころか、アドラーは、「叱る」という行為は人として愚かな行為だと言い切ります。なぜなら、「叱ること」は、叱る側にとって、最もコストが低く、相手を操作できる、安直なコミュニケーション手段だから。「叱ること」は、理屈抜きに人を従わせるという点で、「暴力」と本質的には変わらないと言うのです。

では「褒める」はなぜダメなんでしょうか。
第一段階においては有効に機能するし、褒めなければ第二段階以降に移行してしまうんじゃないかと思った方もいるかと思います。

アドラー的には、「褒める」という行為は、「能力のある人」が「能力がない人」に下す「評価」だから。これは”縦”の関係だからできる行為なのだと。そして、その究極的な目的は「操作」だからとも言います。

さらに問題なのは、「褒める」行為は最終的には「競争原理」を生むのです。
なぜなら、「褒められたあの人」と「褒められなかった私」を存在させ、「褒められたあの人」を「敵」と認識することに繋がるからです(逆もまた然り)。

アドラーの「共同体感覚」に立ち返ってみれば、「敵」の存在する社会が大きな問題であることは想像できるでしょう。つまり、「敵のある社会」は「共同体感覚」を失わせるのです。

いやいや、「褒めるな」「叱るな」。じゃあどうすればいい?

そこでアドラーは言います。

「課題の分離」だ、と。

あなたは他者の期待を満たすために生きているわけではなく、他者もまたあなたの期待を満たすために生きているわけではない、と。

「自分の課題」と「他者の課題」を分けて考えなさい、と。

この時、ある事柄が、自分の課題か相手の課題かを見極める判断基準は何かと言えば、

その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?

を考えることです。

そうして、「競争原理」ではなく「協力原理」に基づく社会を理想とし、「人と違うこと」ではなく、「私であること」に価値を置くことをアドラーは主張します。

しかし…

人はそれが中々できない。

それがなぜかといえば、「劣等感」を抱える存在だから、です。

劣等感

ようやく「アドラーの心理学」の幹となる考え方の4つ目まできました。
それは劣等感です。

人間は特殊な生物です。
それは、人間とは、「心の成長よりも身体の発達の方が遅い、おそらく唯一の生き物」だからです(他の生物は、心と身体の成長速度が一致しているのに、人間だけは心が先に成長し、身体の発達が遅れをとる)。

その結果、子供ながらに心理的に「やりたいこと」と、肉体的に「できること」ギャップに苦しむことになります。これこそが、「劣等感」の源泉(心は大人と変わらないのに、人間的な価値が周りから認められない)を生み出します。

従って、人は、子供時代から往々にして「優れた自分になりたい」という目的持つ生き物なのです。

そして、「優れた自分になりたい」と思ってしまった時点で、劣等感が生まれます(皮肉なことに、「優れる」を目指すから、「劣っている」という概念が生まれるのです)。

劣等感は、人である以上、必然的に持っているものです。
アドラー先生も、
「人間であるとは、劣っていると感じることだ」
とおっしゃているほど。

しかし、強すぎる劣等感は時に「コンプレックス」に発展し、最終的には「逃げる(=社会から遠ざかること)」という結果になってしまいます。
これは、共同体感覚の考え方から言えば、望ましい状態ではないですよね。

であるとするならば、問題となるのは、いかにして劣等感を克服するかです。
そこには2つの方向性があります。

一つは「優越への努力」、もう一つは「完全への努力」です。

「優越への努力」とは、「人より優れたい」という気持ちが原動力となって作られる努力です。したがって、努力の方向性は利己的なものとなります。そして、努力に失敗した場合、それは「敗北」となります。

「完全への努力」とは、「共同体を成長させたい」という気持ちが原動力となって作られる努力です。したがって、努力の方向性は利他的です。そして、努力に失敗したとしても、それは「共同体の財産」となるのです。

そこには、「社会に適応する」というイメージがあります。

これは言ってみれば「劣等」という問題と表裏一体です。
なぜなら、1人の個人は小さく弱く、劣っているから人間は社会を作るからです。共同体感覚は、ここでも社会的に協力し、個人を救済する役割を果たしています。

結局、劣等感を原動力に努力できる健全な心を身につけることが大切なのです。
それには、共同体感覚を育てることが鍵となります。
なぜなら、健全で有益な目的は、共同体感覚から生まれるから。

社会性を身につけ、社会に適応できるようになれば誰もが持っている劣等感を正しく活用することができる。

これが、アドラー先生からのメッセージです。

共同体感覚、目的論、”横”の関係、劣等感

ここまでの一連の幹となる考え方を繋げて考えた時、人間の悩みの本質が見えてきます。

それはアドラーが「人生のタスク」と呼んだ3つの課題に現れます。

人生のタスク

人生のタスク。それは、①仕事、②社会との関わり、③愛です。

まずは1つ目の「人生のタスク」仕事についてです。

ここでアドラーが持ち出す概念、それは「分業」です。

「分業」といえば、経済学の概念のように思えますが、アドラーは「分業」を次のように解釈します。

人は「生きるため」に、他者と協力し、「分業」しなければ生きていけない存在なのだ、と。

大昔から、人は社会をつくり、獲物を狩る人、弓を作る人、矢を作る人、住処を守る人、それぞれが役割を分担し、協力して生きることで、人はより高度な生活を享受してきた、と。

他者と「分業」する。
その前提にあるのは、「他者を信じること」です
(弓を作る人は、獲物を狩る人が、狩った獲物を分けてくれると信じているから、弓を作ることに専念できる、その逆もまた然り、ということですね)

しかし、注意すべきは、ここで言う「信じる」とは、「相手を”条件付き”で信じること」です。これをアドラーは、「信用」と表現しました。

そして、「人生のタスク」その1、「仕事」の関係とは、他ならぬ「信用」の関係なのです。
(先の例で言えば、弓を作る人は、「狩った獲物を分け与えてくれる場合」という条件の下、良い弓を提供しているのです)

人生の課題は、ここから始まります。

次に、2つ目の「人生のタスク」「社会との関わり」についてです。

一つ目の「人生のタスク」はあくまでも「生きるために必要なタスク」でした。
一方で、本当の意味で人生に必要なもの、それは共同体に所属しているという感覚であり、それを実感できるのが「社会との関わり」なのです。

ここで必要なもの、それは「相手を信じること」。
ですが、”条件付き”ではなく、”無条件で”信じること。
これをアドラーは「信頼」と表現しました。

そう、「社会との関わり」とは「信頼」の関係なのです。

「信用」と「信頼」の違い。
それは、相手を「尊敬」できるかどうかだとアドラーは言います。

ここで、アドラーの言う「尊敬」とは、一般にイメージする「リスペクト」とは少し違うようですので、補足しますと、「自らの価値観を押し付けることなく、ありのままその人を尊重すること」なのです。
(例えば、子供が「謎の遊び」をしているとき、その遊びを意味のないものと切り捨てて勉強をさせるのではなく、その子が遊んでいる内容に関心を持ち、その子のやっていることそのものを尊重する、というような態度です)

こうして、”無条件”に相手を信じる(=信頼)という関係を育み、共同体感覚を掘り起こした人が最後に到達する「人生のタスク」、それが最終関門である「愛」です。

「愛」という3つ目の「人生のタスク」を考えるとき、アドラーの言うセリフはこうです。

人生の”主語”を切り替えよ

・・・?どういうこと?

あなたも、道ゆく人も、人生とは、「自分」が主人公の物語。

そう思っていませんか?

しかし、アドラーに言わせれば、違うのです。

つまり、人生の”主語”を「私」から「私たち」へ切り替えなさい

これがアドラーからのメッセージであり、「愛」のタスクなのです。

「仕事」と「社会の関わり」の2つの「人生のタスク」を終えた人は、

利己的に「私の幸せ」を求めるのではなく、

利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、

「私」や「あなた」より上位なものとして、「私たち」を、「私たちの幸せ」を掲げるのだと、アドラーは言うのです。

どういうことかよくわからん…と思われるでしょう。

ここで思い出してもらいたいのは、「弱さ」という冒頭で説明した人間の本質です。

唐突ですが、私たちは、この世に生を受けたその瞬間から、「世界の中心」であり、圧倒的な「力」を持っています。

その源泉こそ、「弱さ」なのです。

生まれたばかりの赤ちゃんを、大人は無条件で世話しますよね?これって、よく考えると不思議なことで、誤解を恐れずに言えば、赤ちゃんは、圧倒的な自身の「弱さ」で、周りの大人たちを「支配している」と言えるのです。

問題は、赤ちゃんではなく、大人の場合です。

つまり、大人であっても、自らの不幸、不遇なる環境、またはトラウマ、こういった自身の「弱さ」によって、他者をコントロールしようと目論む。

そんな大人達を、アドラーは「甘やかされた大人」と呼んで、厳しく非難したそうです。

周りくどくなりましたが、「愛」とは「私」からの解放なのです。

私たちは、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできず、いつかは世界と調和し、自分は世界の一部なのだと了解すること。

そんな「自己中心性からの脱却」

「甘やかされた子供」のライフスタイル(人生観・世界観)を変え、「私」だった人生の”主語”を「私たち」に変える

言い換えれば、「愛されるためのライフスタイル」とは、いかにすれば他者から注目を集め、共同体の中で「特権的な地位」でいられるかというどこまでも「自己中心的なライフスタイル」であることを認識し、他者を「愛するライフスタイル」に変容していくこと

共同体感覚を持っている我々にはそれができる

そうアドラーは説くのです。


自分の人生は自分で選ぶことができる


なのに、人は、時に様々な口実を設けては、上記のような「人生のタスク」を回避しようとする

これを、アドラーは「人生の嘘」と呼びました。

あなたのライフスタイル(人生観・世界観)を決めるのは「今の」あなた自身であり、決して、「過去の」あなたではない

必要なのは、信じ、愛する勇気。それが、「幸せになる勇気」なのです。


終わりに

いかがでしたでしょうか。

一度、アドラーの思想を知ってしまうと、もはや後戻りできなくなるとも言われる「アドラーの心理学」

 アドラーに触れた多くの人は、「それは理想論だ」と切り捨てようとする

なのに、切り捨てられない

 心のどこかに違和感が残る

それは、 自らの「人生の嘘」を自覚せずにいられなくなるから

だから、「アドラーの心理学」は「人生の劇薬」なのです。


最後に、ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます(ゆうに7,000字は超えています笑)。

「愛」だと「信じる」だのを語るから、こう思った方もいるかもしれません。

アドラーの心理学って、宗教なんじゃないか…?と。

確かに、「アドラーの心理学」が、信じるか否かの理想を語るなら、そうかもしれません。

実際、アドラーが自身の思想を示した時、多くの仲間が彼のもとを去ったといいます。

しかし、正確には、去った仲間は「科学ではない」 と思ったから去ったのです(今も昔も、心理学は科学に分類される)。

じゃあ、「アドラーの心理学」は何なのでしょうか?それは…

「哲学(知を愛する学問)」

なのです。

「宗教」と「哲学」の違いは、「物語の有無」であるのです。

あるのが「宗教」であり、ないのが「哲学」です。

哲学は、主人公のいない抽象概念で世界を説明しようとします。

加えて、哲学は、永遠に問い続け、考え続け、歩み続ける、態度そのものです。

どうでしょうか。あなたは納得できたでしょうか。

永遠に問い続け、考え続け、歩み続ける、態度

まさに「自己啓発」ではありませんか?

ついに幕を開けた2023年。さぁ、あなたはこの1年をどう過ごしますか?


【参考文献】
岸身一郎、古賀史健(2016)『幸せになる勇気』(ダイヤモンド社)

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#嫌われる勇気
#幸せになる勇気
#哲学

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