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銀座線-03-理解されたいって期待してた21歳、理解され尽くしたくない26歳

最近めっきり寒くなって、夜に歩くのをやめてしまったよ。

友人たちは冬服だとおしゃれに一層気合いが入るなんて言っていたけれど、私はだめ。なるべく分厚いコートに手を突っ込んで、装備みたいにマフラーをぐるぐる巻きにする。

それでもすぐに指先が熱を失うから、自販機でホットのほうじ茶を買ってそれごとポケットへ。最近お茶が160円になったね。

外苑前から青山一丁目までは、たったの10分も歩かない。まっすぐ進んでいたら、いつの間に地下へ誘う看板の文字が変わっているんだから、私はまだ都心に知らない秘密があるかのように感じて、嬉しくなる。

最近、26歳になって、いい言葉に出会ったの。

実際、孤独であることになにか創作的意味があるのは二十代前半までです。

『20代で得た知見』F,p.238

学生の頃、私は常に理解されないんだと言う気持ちと戦っていたと思う。そう、恥ずかしげもなく、厨二だったと思う。

もうそれでもいいや、みたいな投げやりさもあったし、でもそれでも誰かには受け入れてもらいたいという自我がぱんぱんに膨れてた。

きっとそういう期待されたい、理解されたいという気持ちは、今でも消えてはいないんだけどね。隠して何でもないふりをするのが上手くなっただけで。

「孤独だ」なんて友人たちにはべらべら話したりしないけれど、昔から文章を書いていた私の自我と寂しさはだだ漏れだったと思う。

友人がいても、恋人がいても、期待は大きくなるのに見せられないものは多くて、そして理解されないといつものように嘆く。それをぶつける先は私の場合文章だったから、孤独は創作の原点って言える気がする。

行き先のない自我が垂れ流されて、私の中の言葉は確実に増えていったと思う。

でもね、26歳になって、相変わらず理解されない部分はもちろんあるけれど、理解されたいと思わなくなった。むしろ、理解され尽くしたくない。ていうか、人間なんて他人のことを理解できないなあって、そういうところが愛おしいけど、少しでも近づけたらなあと、そんなふうに思うよ。

そういうの、ないかな。大人って(なんて言ったら主語おっきいけど)それまでの経験でなんとなくわかりそうなことを、勝手に分かった気になるのが早くない?

だからその人の基準で判断されたり、「君ってこういうタイプでしょ」とか言われたり(言っちゃったり)するんだけど、私はそういうの、受け流せないまま歳をとっちゃった。

あんたの知らない部分、まだいっぱいあるんだからな!って思っちゃう。でも一方で、突飛なことをしなくても、自分と大切な人との時間を穏やかに過ごせていることに感謝することもある。

わざわざ自分を傷つけるように陥れて構ってほしいとか、あとは自分を特別だと思わなくなったのかな。

もちろん、自分に祈り続けたいんだけれど、私たちはもう大切な人とつながりすぎている。傷じゃなくって日常を愛そうと、良くも悪くも思っているんだろうな。

だから時折、冬の東京をひとりで歩いてみたりする。頬にぴんと冷たい風を当てて、そうすると、懐かしい「ひとり」が思い出したようにそっと横に並んでくれる。そして、頼むからつまらん大人になるなよと言ってくれるから。

そんなことを言っていたら、もうメトロの入り口は見えてくる。



Written by mayu


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