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先生はきっともう忘れてるだろうけれど


あれは、確か幼稚園児の時だったはずだ。



私は折り紙で、カメラを作った。

もう折り方は一工程たりとも覚えていない。
ただ、どこかを押すとレンズ部分のシャッターがカシャンと開くという、地味に凝った造りの折り紙だった。それが嬉しくて、私はぱたぱたと、せんせいのところへかけていく。


「せんせーい! はい、ちーず! ぱしゃ!!」


振り返った先生は、嬉しそうに笑う。



「わぁすてき!ありがとう!現像したら見せてね!!」



ここで、幼い私はさっと青ざめた。


現像。
しまった。



これは折り紙のカメラなのに。


根が、真面目だったんだと思う。
後、頭も悪くなかった。これが折り紙のカメラで、先生がごっこ遊びに付き合ってくれただけということも、その当時でちゃんと私は理解していた。理解していたから、別に本当に先生に写真を提出しなければいけない訳ではないし、放っておけば先生はこのことを忘れてしまうだろうということもわかっていた。

わかっていたけれど、本当に根が真面目だった。
『この写真ごっこあそびを始めたのは私なのに、写真を撮ったらそれを現像して相手に渡すという当たり前の流れを、約束を、勝手に無視してこちらで終わらせていいんだろうか』
みたいなことが、ずっとぐるぐると頭に残った。

何か、せめてごっこ遊びらしく、先生の似顔絵でも描いて「写真、できたよ!」って渡すべきだろうかとかめちゃめちゃ考えた。
考えたけど、実際に描く勇気はなかった。その頃私はまだ自分の絵にそんなに自信がなかったし、いくら自信があってもそれを『写真』として提出するのはどうなんだろうとか考えてた。今思えば、先生はどんな下手くそな似顔絵が来たって嬉しいだろうに、それをこの1回きりのノリで遊んでくれた先生に押し付けていいものなのか分からなくて、時間が経って、結局何も出来ずに私は卒園の日を迎えた。



そのぐるぐるはずっと残って、小学校を卒業しても、中学校を卒業しても、まさかの30代半ばの今になってすらずっと忘れられない遺恨として残っている。

どの年代で振り返っても、先生の対応は満点だったよなという感想しかない。まだスマートフォンなんてなかった時代、カメラも全然デジタルじゃなかった時代。子どもがカメラごっこを向けてきたら、それはデータとしてしまいこむものじゃなくて『現像して見せてね』までがセットで当たり前だった。
幼児に対して「それは折り紙だから写真なんて撮れませんよ」なんて返す馬鹿はいないだろう。あの時の先生に、落ち度はゼロだ。というか私も同じ状況なら、多分ほぼ似たような返しをすると思う。
ただ、幼い私が自分で仕掛けて自分で勝手にドツボにハマってしまったという、どうしようもない話なのだ。



大人になって、今私にも娘がいる。
まだ彼女は折り紙なんて出来る年齢ではないけれど、いずれ色んなおもちゃを使って、様々な遊びをしていくことになるだろう。

今も、あの時の『正解』は分からない。
ただ、『子どもは案外色々考えてるから、「子どもだから大して分からないだろう」と高を括る対応はしない方がいいよ』と、幼い私がずっと背をつつき続けている。

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